被っていたシルクハットを押さえながら、一段飛ばしで駆け上がる。降り積もった雪の上だと危ないが、現在は屋内なので問題ない。
 振り返ると見慣れた顔がいつも仏頂面で昇って来るのが見えた。

「何をそんなに急いでるんだ?」

 呆れたように肩を竦めながら言う松下の口元から、白い息が舞う。
 僅かに掠れたその声が泣いているように聞こえるのはいけない。そうは思いながら、できるだけ陽気に見えるように、山田は振り返った。

「久しぶりだから照れてるんだよ」

「ちっとも照れてるようには見えないがな」
 見える様子という意味では、松下の言う通りである。
 笑顔一つ浮かべることのできない自分に困るのはこういう時だ。

 それでも本当だよ。

 心の中でつぶやいて、再びリズムよく階段を昇る。


 最後に会ったのは大晦日だった。けれどもあれは数にすら入らないだろう。そうすると、かれこれ二週間ぶりぐらいに松下と会えた事になる。
 最初に埋れ木にも声をかけたのだが、なんだか気を遣われてしまったらしい。
『松下くんと行ってきなよ』
 そう言って微笑んだ彼の表情を見るに、大方、メフィスト経由で例の件をばらされたに違いない。
 埋れ木にあれは違うのだという旨を説明して、どうにか一緒に行こうとしたのだが彼も一度決めてしまうと頑固なので上手くいかなかった。

 メフィストは笛のお仕置き決定かな。

 そんな計画を頭の片隅において、松下を迎えに行った。

 電車に乗って数十分。歩いて一時間の長旅。
 殆ど人の乗らない車両を選んで、松下と二人でいるとどうしても沈黙状態になってしまって、けれども気まずいことはなかった。ただ、間に埋れ木がいる時のような暖かさにはどうしてもなれないだけだ。

 僕には熱が足りない。

 そう思いながら、考え込む松下の横顔をさりげなく見ていた。
 辿りついた先は、封鎖状態の灯台である。
 入口には立ち入り禁止の看板にくわえてフェンスがあったが、そんなものは障害とはいえない。二人して簡単に飛び越えて、上を目指しているところだ。

「だいたい、灯台に何の用事があるんだ?」

 実のところ、松下には場所も目的も話してなどいなかった。
 それでもここまでついて来てくれるのところが、彼の優しいところだと思う。
「高いところって気持ちいいよって話」
「よけいに寒くなるだけじゃないのか」
「明らかに重装備でなに言ってるの?」
 やたらもこもことした上着にくわえて大きめのマフラーをした松下の姿は、どう見ても寒そうには見えない。

「違う。山田の話だ」

「僕? 僕は大丈夫だよ。今は全然寒くないから」
 これも嘘ではない。触れる空気は冷たい。しかし、内側は熱いぐらいだった。

 階段の終わりで一度、足を止めた。息を吸って飛び出した先、一際強い海風に視界を遮られる。持っていた蝋燭の明かりが消えた。
 それでも手の届く範囲を照らしてくれる程度の月明かりのおかげで、遅れてやってきた松下を見ることはできた。

 それで十分だ。

「本当は、大晦日に来たかったんじゃないのか?」
 柵に手をかける山田の横に並んだ松下の第一声はそれだった。
 その通りだ。見晴らしがいいこの場所は、日が昇るのを見るには絶好の場所である。

「それより先に言うことあるんじゃないの?」

 折角、天気が晴れて空には星が出ているのだから、それについて口にして欲しいものだ。
 それでも空を見上げた松下は少しぼんやりしていたように見えたので、それでいいということにした。

「他に? ああ、心配かけたな」
 大晦日の話題は避けたいなと思っていたのだけど、全く伝わってなかったらしい。
「松下君、調子悪そうだね」
「ちが……今、気づいたのか?」
 否定を口にしようとして、松下はやめたようだった。
 見破られるとわかっている分には回復しているらしい。
 小さく首を振って、水平線を見た。

 ずっと気づいてるよ。

 だから年明け早々、ダニエルは挙動不審だったし、メフィストは呆れ気味だったのだ。

 わかってるんだよ。

 本当は何でもないふりでいるべきだ。

 けれども無理だった。答えが見つからない問題に直面して、ましてやそれが調べたところで見つかる数学的な類ではないのが悪かった。

 大晦日のあの日。約束らしい約束はしていなかったのだが、いつもみたいに勝手に家に行った。扉を開けるのは佐藤と呼ばれる松下の家庭教師だか使徒だかよくわからない青年である。その後に現れる松下は不機嫌そうな顔でも、山田を見るなり少し呆れ顔になるのだ。それがなんだか、山田は好きだった。

 そのどちらの表情も特別だと、感覚的に知っているのだ。
 けれどもあの日は違っていて、出てきたのは蛙男の方だった。
 不思議に思っていれば、彼いわく、松下は風邪をひいて寝込んでいるそうだ。
 隣にいる埋れ木が蛙男と会話しているのを耳にしながら何も口にできなくなったのは、言い知れぬ不安を覚えたからだった。

 そのせいで黙り込んでいる山田に対して、埋れ木は残念だったねと誤解してくれたのには有難いと思った。この説明できない感情を悟られてしまうと、彼も引きずり込んでしまうことになる。
 結局、その日は何もしないまま別れて、一人でこの場に来て色々と考えた。

 波の音しか聞こえないような静寂。地上と空に浮かぶ黒い海。
 やたら寒いと思いながら、一時間後には耐えきれなくなって走り出していた。


「松下くん、誰に謝ってたの?」

 向かった先でこっそり覗いた窓の向こう側にいた松下は、風邪とは別にうなされているように見えたのだ。
「いつの話だ?」
 強い口調に視線を向ける。見開いた松下の瞳に映る自分自身の姿は、やっぱり何の表情も浮かべていない。

「覚えてないならいいよ」
 声なんて聞こえなかった。ただ、そういう風に見えただけだ。
柵に触れると冷たさが広がったから、そっと離す。
「そうか」
 病み上がりの彼は少しだけ目を細めて、重い息を落とした。

 それでも雪は溶けたりしない。
 僕らには熱が足りない。

 被っていたシルクハットをはずす。松下の下を向いた視線が向くのも構わず、中からマントを取り出して首に取りつけた。

「山田?」

 くるりとその場で一回転。揺らめくマントを見ていると、なんだか埋れ木を思い出してしまった。

――夢よ、届け。君の心に。

 一度だけその声を思い出す。
 願う。届くだろうか。夢とは違うけど。

 届いてくれよ。

 シルクハットを深く被る。両手を柵にのせて、身体を持ち上げる。足を乗せて、バランスを整えながら、深呼吸。
 馬鹿は高いところが好きって、よく言ったもんだと思わない。ダニエル。

「生きてるだけで重いなんて、地球は意地悪だよね」

「いきなり、何を言って――」

「僕もエゴイストだよって話」

 上手く笑えただろうか。傾けた重心で空が真正面になった。
 空で星が瞬く。浮遊感。それが鎖であるとするならば、今はとても身軽だ。

 けれども、それはとても寂しい。

 空中へ伸ばした左手に、懐かしい感触。
 一瞬だけの視線の交錯。

 いつもは冷静なくせに、そんな顔をするのは反則だよ。



「怒らせた?」
 斜め前を歩く松下に問いかけると、首だけ振り返った彼が肩を竦めた。
 民家の明かりがその頬を照らすのを見ながら、彼には夜が似合うなと改めて思う。
 踏みつける砂利の音に混じって、風が草を揺らした。

「怒ってはいない」

「松下くん、焦ってたね」
あの時、柵を越えた松下の表情には一切余裕がなかった。
「そうだな」
 いつもの冷静さを松下が持っていたのなら、その格好や行動からどうにかなるだろうことはわかっていたはずである。
 数分前の温度を思い出しながら、山田は左手を閉じる。

 普通に落ちていたら海に真っ逆さまだ。ただ、それを回避するための道具は用意した。

 メフィストは本当に何でも出せるよね。

 シルクハットの中にあったサイズの小さめなマントとシルクハットは、それだけでも十分に魔力を持っていて、それほど重いものではなければ抱えて空を飛べる。
 掴んだ松下の手を引き寄せて、落ちてきたその軽さを受け止める程度なら、山田にでもできた。

 松下の背中を見ながら左手を開く。
「簡単だよ」
 簡単なんだと心の中で繰り返す。
 そうでないと嫌だと思った。

「重力だって逆らえる」

 ぴたりと松下が足を止めたのも構わずに、山田は前に進む。
 道のずっと向こうの端まで行ったことはない。先は真っ暗。
 それでも何も見えないわけじゃない。

「僕にだって、やれることはあるよ」

 くるりと身体を回転させて、松下に向き合った。
 彼は少しだけマフラーをずらし、白い息を吐く。

「山田にしかできないことがある、の間違いじゃないのか?」

「どういう意味?」
 一度、目線が横にずれる。薄らと赤味を帯びた頬を隠すように、松下がマフラーを上げた。
「いや……相変わらず、何を考えてるのかわからないやつだなと思っただけだ」
「説明が必要ってこと?」
 首を傾げて見せれば、松下は眉をひそめる。肩を落として頭を下げた。

「……悪かった」

 そんなことを言わせたかったわけではないんだけど。
「これぐらいのことしなければならないほど、心配をかけたんだろう?」
「他に方法が思いつかなかっただけだよ」
 本心だった。与えられる言葉だとか、気晴らしで何かをさせるとか。冷静ならば思いついたであろうその方法は、既に掻き乱された感情の状態ではまともに考えられなかった。
 それでもどうにかできる限り考えて見つけたのが、あの僅かな浮遊時間。

 背負っている重みが無くなる瞬間。それだけで何が変わるわけでもなくても。

「失敗したらとか考えなかったのか?」
「失敗するわけがないよ」
 させるわけがない。自分だけでなくて、松下も巻き込むのだから尚更だ。

「――全く、敵わねえよな」

 マフラーを巻き直しながらつぶやいたそれに、笑いが混じる。
「じゃあ、危なくないように隣に並んでいい?」
 指差して見せれば、松下はその場所を一瞥した。
 空白にいつもいる誰かも、今は居ない。
「隣の方が危ないんじゃないのか?」
「だったら、左手は松下くんが掴んでおけばいいと思うよ?」
 松下が山田の手を見る。再び視線を戻した彼は真顔。

「断る」

「だよね」
 予測できた答えに、合わせた両手に息を吹きかけた。
 目的は果たしたのだから、それ以上など無くても構わないと思う。
 気休めさえ与えられたのなら、よくやった方だ。

 そう簡単には救えないものだよね。

 自分にだって傷はある。それがいつ癒えるのかはわからない。
 たまに滲んで痛さにしゃがみ込みたくなることもあるのだ。

「けど、隣を歩きたければ勝手にすればいい」

 滑り込んできた声に、小さく頷いた。
 立ち止まった松下の隣に並ぶ。歩き出した彼の歩幅に合わせる。
 心地の良い沈黙で、互いの呼吸の音を聞いた。

「よけいなことしてるんだったら、言ってくれてもいいよ」
「自分のこともできないくせに、他人のこと考えるな」

 言い放たれた言葉に顔をあげる。
「それ、松下君のこと?」
「自覚がないとは、性質が悪い」
「そうだね」
 僕としては松下君もよっぽどだと思うけど、と思ったのは言わずにおいた。
 身体を伸ばして、改めて見上げた空は遠い。

「重力がなかったら、僕らはもっと身軽だったかな」

「ただ、流されて行くのはごめんだ。自分の意志で動ける方がいい」
「でも重いよ?」
「押し付けられた荷物じゃなくて、自分が選び取ったものだからな。重くていいんだよ」
 目を閉じていう松下の声は、静かに夜に響く。
 山田は後ろを振り返って考えた。

 世界のこと、いつも居る悪魔のこと、もう一人の僕のこと、今は居ない彼女のこと。

「そうだね」
 肯定の頷きとともにつぶやくと、ちらりと視線を向けた松下が小さく笑う。

「納得するな。お前はもっと身軽な方がいい」
「どうして?」
「バランス崩して落ちそうになっても、それなら空も飛べるさ」
「そしたら、メフィストの出る幕が減るね」
「それでも呼ぶんだろう?」
 そうだね。

「松下くんなら誰を呼ぶ?」

「誰も呼ばない」
 期待を打ち砕くには十分な即答に、山田は肩を落とした。

「ちぇ。面倒だなぁ」

 それなら、タイミングと洞察力と想像力を駆使して松下を見抜くしかないではないか。
「気にしなければいいだけだろ」
「放って置いて欲しいって松下くんが土下座して頼んでくるなら、そうするよ」
 松下の眉間に皺が寄る。
 その足が力強く踏み出したかと思いと、そのまま早足になった。山田も後を追う。

「面倒なのはお前の方だ」

 追いついて聞こえた声には、色々な感情が入り混じっているような気がした。
 もっと面倒そうな大人と一緒にいるのだから、僕一人ぐらい大したことないよ。

「これでもできるだけ、松下くんには迷惑かけないようにしてるんだよ」
「同じことを佐藤にも言われた」
「ちぇ。二番手か」

「僕は迷惑だと思ってはいない。面倒だとは思うがな」

「それって、迷惑じゃないの?」
「面倒なのは当たり前だろう。僕もお前も佐藤も違う。食い違うのも勘違いするのも当然のことだ。そんなことを気にするくらいなら、もっと別の事を考えろ」
 そこまで言われて、松下の言いたい事をようやく理解した。

 ああ、うん。そうだね。

「わかった。そうする」
 言いながら、握りしめられた松下の右手首を掴む。
 驚いたように視線の向ける表情を見ながら、笑えない代わりに目を細めた。

「今日ぐらいは、僕の手を握ってくれよ」

 迷う迷わないではなく、繋ぎとめておきたいのだ。
 はぐれるとしても一人よりは、二人がいい。

「……埋れ木みたいなことを言うな」
「その埋れ木くんが居ないから言うんだよ」

 ふぅと諦めたように息をついた松下が、握られた手を解く。
 改めて、僕が手を差し出せば、そっと握られた。
 病み上がりのせいか、気温のせいかその温度は高い。

「何かあったら守ってやるよ」

「それ、誰の真似?」
「誰だろうな」
 意味深に言われて、僕はいくつかの顔を思い浮かべて、今は頭の片隅に置いておくことにした。

「今度は三人で出掛けようね」

 二人も悪くないけど、やっぱりそれでは何か足りない気がするんだ。

「そうだな」

 その日、二人が交わした会話はそれだけ。
 それでも山田は満足で、同じものを松下が感じていればいいと思った。

END


[2011/05/23]