(千年王国版) 「夕方というのは逢魔時とも言われていてな」 「やめてください。わかってますから!」 窓からの来訪者ということに驚いた様子ではなかったが、佐藤が何か不都合でもあるのか慌てて両耳を塞ぐ。 どこまでも白い部屋に馴染む髪色を揺らす風に、松下は窓をゆっくり閉じた。カーテンで遮られた三つのベッドを見渡し、半泣き気味の佐藤の隣に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。 持っていた箒は室内には似合わないが、目の前の彼がそれを指摘することはないはずだ。 「何をそんなに怯えているんだ?」 窓際のベッドでなければ受付を通らなければならなかったところだが、そういう意味でも佐藤は運がいいのだと松下は思う。 これでも警察には警戒されているのだ。 手持ちぶさたに引き出しを開ければ文字の書かれた紙切れが入っていた。何も言わずにそのまま閉じる。 用意がいいな。道理で。 好都合すぎる状況の答えを把握した。魔力の気配は感じていたが、やはり蛙男が結界を張っていたらしい。 「どうせ笑いにきたんでしょう?」 耳を塞いでも聞こえているなら意味がないのではないだろうか。完全遮断したいわけではないのだろうと予測して、松下は耳を掻きながら片目を閉じた。 「わざわざ笑いに来るほど、ぼかぁ暇じゃないぞ」 「じゃあ、何しに来たんですか?」 佐藤が両耳から手を離すのに合わせて指を抜けば、耳の音がクリアになった。 箒で飛行中の気圧に影響を受けたかもなと考えて、潤んだ目の男を見た。 太い眉毛に神経質そうな造形、整った顔立ちということを除けば典型的な日本のサラリーマンのイメージである。 「お見舞いとは思わないのか、この家ダニが」 「メシヤがお見舞い、ですか?」 胡散臭いものを相手にするような目を向けられる覚えはない。 「文句か?」 黙って聞いていればよけいなことしか言わない男である。佐藤の性格は相変わらず健在だ。 「だって、お見舞いですよ?」 「黙れ、家ダニ」 最初の動揺が嘘のような態度にため息を漏らして、改めて佐藤を見た。 何を着ても似合うと思ったのは褒め言葉ではない。意味としては逆だ。 去年までは入院通院の繰り返しだったことを思えば、今の服装に見慣れただけなのかもしれない。 「で、東大首席のエリート様が、どうして脚立から落下して骨折したんだろうな」 吊し上げられた右足は厳重に固定されて、左足の三倍ぐらいになっていた。 「傷を抉るような説明やめてもらえませんか?」 「事実だろうが」 蛙男から連絡があった時点で生死に支障はないとわかっていた。 それならいいかと時間をずらし、三日後である今日の見舞いに来たのである。 「そうですけどね」 言い返す言葉のなかった佐藤が項垂れる。その前髪が影を落とした。人のことは言えないが伸びてきたなとため息を一つ。 「とっくに蛙男から説教を受けているだろうから黙っておくが、」 佐藤が身構えるのが表情でわかった。 そんな恐ろしいことを言うつもりではないのだが、何を想像しているのか聞きたいものである。腹が立つだけのような気がしたので、無駄なことを避けるためにも追求しないことにした。 「何を取ろうとしたんだ?」 事故当時、彼がいたのは松下家だった。とはいっても、松下の父である太平は仕事の関係で家に帰ることはほとんどない。松下も活動拠点に関しては実家ではなく、別荘の一つを使っている。それを思うと不思議な話ではあった。 元々は蛙男が松下の持っている本の一つに用があって、松下家に向かったはずである。 佐藤はおまけだったはずなのだが、書斎で興味をそそられたのか本棚を凝視していたらしいと蛙男から聞いていた。 「えっと、ほら、そんなこといいじゃないですか。結局、取れなかったわけですし」 それで誤魔化せるとでも思っているだろうか。視線が泳ぐ佐藤の表情は聞いて欲しそうにしか見えない。 「そんな重要なものだったのか?」 「どうしてそんなに気になっていらっしゃるんですか?」 佐藤にしては悪くない質問だった。 それに対する明確な答えが思いつかなかったので、浮かんだ疑問の一つをかわりにすることにした。 「僕にはさして重要には思えなくってな」 言いながら上着を捲り上げると、ぎょっと佐藤が目を見開く。 「えっ、ちょっ、なんで脱ぐんですか!」 「何を考えているんだ、お前は」 赤面する目の前の男は、想像せずともロクでもないことを思っているに違いない。深く息をついて、背中に差し込んでいたものを取り出して見せた。 「なんで、わかったんですか?」 蛙男には佐藤が何を取ろうとしたのかわからなかったそうだ。 彼が手を伸ばした方向には、何冊かの書物が雑多に入れられた段ボールがあったらしい。 その中のどれなのか予測すらできなかったそうだが、松下には何となくわかってしまった。 勘違いであればいいという僅かな想いは、この反応を見る限り裏切られたようである。 「家ダニは変態だからな」 古びた一つの冊子の表紙は古ぼけて字が読めなくなっていたが、下にかろうじて日付らしきものが記載されていた。 「見ていいんですか?」 「僕が帰ってからなら」 佐藤の手が触れたのを確認してから指を離す。 あと数分すれば暗くなる窓の外を確認して、松下は箒を手に取った。 「もしかして、これだけのために来たんですか?」 「悪いか?」 「いえ、悪くはないんですけれど」 手元の物と松下を見比べて、佐藤は少しばかり間を置いてから唇を緩ませる。 「そこまで気を許していただけるとは思ってもみませんでした」 「何を勘違いしてるんだ? 僕にはさして重要なものじゃないと言っただろう」 「終わったものだからですか?」 「過去だからな」 最後にその冊子を開いたのはいつだったかと思い返す。確か母が亡くなった時だったはずだ。一時期は父も見ていたようだったが、仕事を増やすようになってからは埃を被るようなところに投げられたままだった。 彼はきっと忘れてしまいたかったのかもしれない。 「見る価値はあると思いますよ」 表紙の埃を払いながら佐藤は嬉しそうだった。 よくわからないなと思いながら歩き出せば、後ろから「ありがとうございます」と声が聞こえて振り向いてしまった。 鼻歌が聞こえそうな表情で佐藤が開く冊子は、一定期間から止まったままの写真が閉じられたものだ。 衝動的に佐藤の横に小走りで戻る。ベッドサイドに曲げた膝を乗せた。 松下の動きに気づいた佐藤が顔を上げたところで、その肩に左手の指を食い込ませた。問答無用で唇を重ねれば、驚きを通り越して目を丸くする彼の様を間近で見ることができる。 「どうしたん、ですか?」 唇を離すとぎこちない日本語で佐藤が問いかけてきた。 「魔が差した」 自らの行動理由に納得いく説明が浮かばず、一言だけ告げる。逃げるようベッドから降りようとすると、両頬を押さえられてしまった。 抵抗する間もなくキスを返され、松下は眉を潜める。 「……大胆なことを」 「逢魔時とはそういうものなんでしょう?」 「余裕ぶっても顔には出ているぞ」 「メシヤは冷静ですね」 「まあな」 今だけだという弱みは見せるわけにはいかなかった。 その手をすり抜けるように離れて、今度こそ去るべく窓を開ける。 「メシヤは」 背後から聞こえた声。飛び越えた窓から佐藤を見た。 「いつから救世主なんですか?」 その答えが知りたいからアルバムなんて見ようと思ったのか。 無駄なことをしているなと思う。だが、嫌いではなかった。 「生まれた瞬間からだ」 自覚したのがいつからなんて気づかないぐらいに根底に埋め込まれていたこの衝動は、きっと魂に近い場所にある。 釈然としない顔の佐藤を見ながら、病院を離れた。 夜が明けるまでは自由時間だなと思いながら、今更熱くなってきた耳を撫でる。 夜風が涼しくてよかったと素直にそう思った。 END [2012/03/17]
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