(世紀末大戦版)


 懐かしい気配だった。

 もっとも月日の流れに関する感覚はとっくに狂ってしまっていたから、何事も懐かしいのかもしれない。
 靴越しに感じる砂利の感触。鼻腔を撫でる草木の匂い。風が頬に触れる。鼓膜に響くのは怨念じみた声。そっと、松下は閉じていた目を開けた。
 黒い霧が蠢く道はまだ続いている。そういえば、蛙男と三十日間歩き続けたことがあったなと、昔のことを思い出した。

「責めないのですか?」

 僅かな沈黙の後、松下の背後からそれは聞こえた。僅かにノイズが混じったそれを聞き取りながら、再び目を閉じる。
 黒と白が瞼の裏で逆転した。
「償えもしないのに求めるなよ」
 空気がざわつく気配。
 足元に絡みつく白い霧のようなものには構わずに進む。
 後ろにある強い光に比べれば、こんなものは大したことなどなかった。
「償う? 馬鹿らしい。それはこちらの台詞ですよ」
 空笑い交じりに声は言う。

 また、随分と荒んじまったなア。

 今日の天気は快晴だったような気もするのだが、目を開いたところで頭上も暗いだろう。木々の隙間から零れる光すら感知できないはずだ。
「償う気はないのですか?」
 それは先程よりもずっと近くで聞こえた。
 すぐ背後に霧の元凶がいる。

 そんなことをしても僕を呑みこむことなどできないぞ。

「償えるものなどないさ」
「罪がないとでも言うつもりですか?」
 ははは。と、笑い声。

 空笑いするのは楽しいのか?

「いいや」

 罪だというなら全部だ。罰ならこの一生だ。それでも償いきれないものだろう。
 本当の終わりは千年王国ができて、僕が居なくなった時だ。

「なら、償いついでにもう一度、死んでみてはいかがですか?」
 次こそは地獄に連れってあげますよ。

 耳の横を抜けた霧が眼前で広がる。目隠しをするかのようなそれは、すぐに四散した。

「地獄か。悪かないね」

 その境界線すらも無くしてしまおうか。

「……嫌なガキだ」
「その通りですよ」
 吐き捨てるような声に松下は立ち止まって、緩やかに振り返った。
 瞼を開けば、鳥肌が立ちそうなほどの冷気を孕んだ闇。

「佐藤先生」

 それはまるで、合図のようだった。
 生前に一度も呼んだことのない名前を告げれば、広がっていた霧が吸いこまれるように一点に集まって形を成す。
 黒でも白でもない薄い人型。忘れもしない、二度目の家庭教師の姿だ。
「久しぶりだな」

「久しぶりもなにも、この三日間は一緒だったではないですか」

 しかめ面で佐藤が答える。先程よりはノイズがマシになった。
「それとも聞こえていませんでしたか?」
「聞こえてたサ」

 憎悪と嫉妬で構成された音は、通常の人間なら耐えることなどできないものだろう。
 ノイズ。不協和音。聞きとれたところで、攻撃的な言葉ばかり。
 それでも誰にも見えていないようだった。普通に言葉を返すわけにはいかなかった。
 隣には昔と違って新しい使徒もいたことだし、何より、一番身近な蛙男に知られたくはないと思ったのである。

「最初は僕を妨害する刺客かと攻撃しかけたがね」

 違うのだと、すぐに気づいた。
 ずっと気がかりだった相手の気配を忘れるわけがないのだ。
 佐藤が死んだのだと聞いた時、ああと思った。
 どこかで彼は長生きしないであろうことを知っていたし、何となくもう道が交わることはないだろうなと天界に行った時に思っていたのだ。

「だから、一人でこんなところに来たんですか?」

 答える代わりに頷いた。
 蛙男が危ないからついて行くと言うのを振り切るのに、一番苦労した。
 そんな心配されるほどに弱くはないが、彼の頭にあるのは万が一という言葉だろう。

 復活してみたら、やたら心配症になってたなア。

 この34年の間に何があったのだろう。
 聞けなかったのは、その話の中に佐藤の話題があるのを知っていたからだ。

 泣きそうな顔をするんだ。見てられないぐらいにな。

「独り言が多いと正気を疑われるだろう?」
「正気のつもりですか?」
 笑みはなかった。ただ、どこか疲れたような表情を浮かべている。

 あれだけのエネルギーで僕を恨んでいたのだから当然だろうな。

「最初から正気のつもりだよ」

 誰も信じてくれなくとも。

「狂気の沙汰ですよ」
「僕からすれば、今の世の中の方が正気の沙汰とは思えない」

 佐藤は反論せずに黙ったまま、松下を見ていた。

「もういいのか?」
「よくないですよ」
 何も言う様子がなかったので聞いてみれば、返って来たのは否定だった。

「……つまり、最初から私だと気づいていたと言うことですか?」

 どこか言い難そうに言われて、松下は肩を竦める。
「どんなに繕ったところで、本質は変えられないサ」
「そうですね。私も変わりきれませんでした」
「変わりたかったのか?」

 ヤモリビトを拒んだのは佐藤の方だ。

「ええ。今もそう思ってます」
 頭上を何かが飛翔。向こうに消える影が残像として残る。
「何になりたいんだ?」
 松下の質問に対して、佐藤はゆるりと笑みを浮かべた。
「考えてみてはどうですか?」
 茶化すように口にして、彼は笑みを消した。

「めんどくせえな」

「そのうちわかりますよ」
 言い終わると同時に、生温い一陣の風が佐藤の後ろから流れてきた。舞った砂に一瞬だけ視界を奪われる。
「あの時、二度と会わずに済むと本気で喜んだんです」
 右目に何かが忍びこんで痛む。瞬きしながら手で押さえた。佐藤を見上げる。

「それなのに、三年後には全く反対のことを考えていました」

 馬鹿げた話ですよね、と佐藤が表情を歪める。
 擦った右目から涙が落ちて、それと一緒に異物も取れたようだった。それでも何かビリビリと鈍い痛みを放っている。
「募る罪悪感に殺されるかと思いましたよ。七年目に復活されなかった時は、気が狂うかと思いました。けれども迷惑を被るのは蛙男くんなんですよ。それならと考え方を変えました」

 徐々に明確さを取り戻して行く視界に、佐藤の手が映った。伸びてきたそれが肩に触れる。  冷気。本能が告げる警告音。勝手に跳ね上がる心臓。

「憎んでしまえばいい」

 声は耳元。不気味なぐらい柔らかく響いた。
「それがこの三日間か?」
 深呼吸しながら、右目だけの瞬き。
「ええ。それだけで生きてきました。会うことができたら、謝罪よりも先に憎しみを」
 笑い。空笑い。

 無理して笑うぐらいなら、黙っていればいい。よく喋る奴だ。

「そうすれば、お前は救われるのか?」
 肩口にある佐藤の表情は見えない。
 けれども清々したと言いたげな声は、どうにも中身がなさそうだ。
「愚問ですね。救うのは貴方の仕事でしょうに」
 ため息交じりに言って、佐藤の手に力がこもる。

「……ずっと会いたかったんです」
 静かすぎる声が頭の奥で反響した。
「泣いて」

 泣いてるのか?
 問いかけようとした言葉は続かなかった。
 激しい頭痛に思考を奪われて、立っていられなくなる。後ろに傾いた身体が支えを求めて弧を描いた。
 歪んだ世界で最後に見たのは、じっと見つめる佐藤の瞳。

 あの日と同じ笑みを浮かべて立っている姿。

 突き刺さるような痛みが脳に伝わっているのに、なぜだか、足掻こうという気にはならなかった。



「メシヤが無事でなによりです」
 渡されたひんやりとしたタオルを額に当てた松下が耳にしたのは、足元にいる蛙男の声だった。
 座ったベッドサイドの感触は柔らかい。蛙男は擦り傷だらけの松下の足の土を別のタオルで拭いながら、心配そうな顔にそれ以上の悔しさを滲ませていた。

「そんな顔をするな。悪く言われるべきは僕であって、お前ではないだろう?」

「それでも強引にでも引き止めればよかったと、思わずにはいられません」
 方法を間違えたかなとも思うが、後悔したところでどうしようもない。松下は口を閉じた。

 頭痛はいつの間にか和らいでいて、目が覚めると地面に突っ伏していた。
 辺りを見回してみたが、佐藤の姿は見えなかった。その気配すらもなかったのだから、いなくなってしまったのだろうというのは理解できた。

 成仏したのか?

 そんな単純な男ではなかったはずだ。
 佐藤はとてもしぶとく、執念深い男である。

 たとえ、責められるとわかっていようとも彼の言葉を聞かなければと思った。それが今の自分にできることだろう。

 夜中に枕元というのはやめて欲しいなア。

 そんなことを思いながら、帰らなければと立ち上がったのだが、やたらと身体が重くて足がもつれた。
 転んだところで大した痛みではないので、無視して歩き続けた。日が暮れてしまっては、面倒なことになると思ったのだ。そうでなくても長時間留守にしては、蛙男が騒ぐに違いなのだ。
 そうして、どうにか今の住処に辿りついた。町田に出迎えられて労わりの言葉を投げかけられたかと思ったら、信じられない早さで蛙男が走ってきて、抱えあげられ、そうして今に至る。
 その間に色々と言われた気がするが、よく覚えていない。
 どこか頭がぼんやりしていた。それが熱を持っているせいだと気がついたのは、ついさっきだ。

「何があったのか、お聞きしてもよろしいですか?」

 痺れるような足の痛みを感じながら、閉じそうになっていた瞼を持ち上げる。
 蛙男の視線は穏やかには思えなかった。
 最初に目があった時に顔面蒼白だったのだから、怒らせたであろうことはわかっている。

 ただ、忠実な彼は急に怒鳴りつけてくることはしない。

「過去と話をしていただけだよ」
 右目を閉じても白い光は現れなかった。

 ああ、本当にいなくなってしまったんだなア。

「……ヤモリビトに、いや、佐藤に会ったんですか?」

 目を開けて、蛙男を見る。
 見上げるその両目は僅かに揺らいで見えた。

「なぜ、そう思う?」

 佐藤について自分から口にしたのは、復活後の一度きりだ。
 それ以外は会話の中で、蛙男がつぶやく一言や話の中に登場するのを日常会話のように聞き流していた。そうしている風を装っていた。

 気づかれていたのかもしれないと思ったが、どこか言いづらそうに目を伏せた蛙男を見ると違うように思えた。

 しばらく、その沈黙に身を委ねる。意を決したように再び視線を向けた蛙男は、一度だけ唇を噛んで、言葉を紡いだ。

「メシヤから佐藤の気配がしたので」

 そんなわけないだろうと言いかけて、それよりも先にその意味を理解した。
「ああ」
 意図せず声が漏れると、蛙男が面を食らったような表情を浮かべる。
「メシヤ?」

「――そうか」

 どうりでその気配を感じることができなかったのだと納得した。
「嬉しいのですか?」
「嬉しいよ」
 考えるより先に口が動いた。
 蛙男には後で説明してやろうと思う。とても面白い。

 佐藤はいつも予想を裏切ってくれる。

 ますます疑問げになる蛙男を前にして、松下は僅かに身を乗り出した。
 内緒話をするようにささやかな声で告げる。

「地獄に迎えに行く手間が省けた」


END


[2010/01/15]