it ran.


 電車は同じ周期で同じ道順を周り続ける乗り物だ。

 一歩足を踏み入れば、指定された駅できちんと止まって、降りない限り終点まで進み続ける。

「誕生日に似ていると思わない?」

 窓を叩く雨の音がまるで悲鳴のようだと思っていたら、隣に座る山田がそんな風に声をかけてきた。
 持っていた参考書を閉じて顔をあげる。
 隣に座る一学年下の山田は質問をしたにも関わらず、膝を立てたまま土砂降りの景色を眺めていた。

 この場にいないもう一人の友人が行うことの方が多い行動に、どうやら機嫌が悪そうだと予測して、どうしたものかと掛けていた眼鏡をはずした。
 周りには黙っているが伊達眼鏡である。妹である悦子にはおしゃれに目覚めたと喜ばれたものの、貰いものだった。
 眼鏡を折り畳んで制服のポケットに入れ、再び山田を見た。窓ガラスに映る表情に景色が重なって通り過ぎて行く。薄く映っているせいか、記憶で霞んだ過去に似ている気がした。

「停車している間、一年を振り返るってことかな」

 つぅ、と黒い目が横に動いた。眼鏡をかけるべきなのは彼の方だと言ったのは、あのドイツ人だっただろうか。見透かされるような目を持っているのはもう一人の彼もそうではあるが、有難いことの方が多かった。
 見破られるのは悪いことばかりでもない。

「次の駅に行かないで、過去に埋もれるのも可能だよね」

 『時を止まれ、お前は美しい』とは、ゲーテのファストの一節だ。
 降りると同時に止まった時間と景色はどんなものなんだろう。それが望んでいた光景であるなら、いっそ止めてしまいたいと願うのかもしれない。
 けど。

「そのうち、忘れられちゃうのかも」

 それは自分の名字の意味そのままだなぁと、ぼんやりと思った。
 ずっと埋もれたままなら、なかったことにされてしまうのだろうか。
 これまで出会ってきた数々の思い出は過去だ。そのうち現在に上書きされてしまうだろう。

「僕は忘れないよ」

 何気なくつぶやくのと変わらない声。山田が立てていた膝を下ろした。
「永遠は誓えないけど」
「えっ、誓わなくていいよ」
 まるで結婚式の誓いのようだなと笑ってしまった。
「大袈裟な言い方したけど、それぐらいには」携帯電話を一瞥「気にかけてるってわかってくれたらいいよ」
「もしかして、機嫌が悪いわけでもなかった?」
 いつもの無表情のままにも関わらず、言っていることはどこか機嫌がいいものに思えた。
「機嫌悪そう?」
「悪そうに見えたよ」
 質問の答えと同時に、山田が肩を落とす。おもむろに靴を脱ぎ始めた。
「……ああ」
 一瞬だけ視線を宙に彷徨わせた山田が、そのまま足の裏を座席に乗せる。

「冬ってやだね」

 唐突な発言に驚かなかったのは、彼がたびたびそういうことを口にするからだった。
「寒いから?」
 雨が雪に変わるのは先だろうが、開いたドアから入り込んでくるのはひんやりとしたそれだ。身震いを一つ。
「そうかもね」
 頷いた山田はどこか遠くを見ているようで、瞬きを二、三度。大きい瞳なのは自分もそうだが、彼と比べると全然違うのだろうなと思う。

「誤魔化した?」

「語るつもりはないよ」
 突き放されたと思うよりも単純に触れられたくないんだろうなと考えるようになったのは、もう一人の彼の存在があるからこそだった。
「思い詰めてなければいいよ」
 一人で考え込んで押しつぶされそうになっていたら別として、自己解決していたのならそれでいい。

「そのうち忘れるよ」

「でも、思い出すんだよね?」
 そのまま流されそうになった話題を引き戻すように問えば、山田が小さく唸った。
 この車両にいる人間はまばら。帰宅ラッシュを避けるため、数カ月ほど前から乗る電車の時間をズラしていた。
 少しだけ山田側に身体を寄せる。今にも蹲ってしまいそうな彼の頭を撫でると、やたら柔らかかった。

「子ども扱いだ」

 されるがままになりながらもぽつりと山田がつぶやいた。
「怒った?」
「怒らないよ」
「怒ってもいいと思うんだけど」
 斜め下から見上げてくる瞳に笑いかければ、ため息を吐きながら山田が目を閉じる。

「疲れてるね」

 何の前振りもなく頭を撫でたのだけどそれに対して怒る様子もないなら、不機嫌の理由は自分ではないのだろうなと不謹慎ながらも安心してしまった。
「埋れ木君もね」
「僕はそこまでだよ」
 ただ受験生というのは否応なしに厄介な空気を纏っているもので、そういう意味では順調とは言えなかった。
 今にも何か火花が散りそうなあの雰囲気には慣れそうにない。

「……松下君が」

「松下くんが?」
「何でもない」
 山田の言いたいことは何となく想像がついて、思わず自らのポケットの携帯電話を手にと取ってしまった。

「あっ」

 さっき山田が携帯電話を見たのはそういう意味だったのかと、今更ながら理解してしまう。
 いっそのこと電話をかけてしまおうかとアドレス帳まで開いたものの、何もせずに閉じた。
 思い返せば、小学校の時代にもやたら頼ってしまって気がする。気を遣わせてしまったと改めて思う。

「でも、まぁ」

 目を開いた山田が顔を上げる。
 つられて視線の先を追えば、停車する電車の駅に見覚えのある影が一つ。
 それなりの雑踏に紛れても見つけられるのは彼が異色なのか、自分たちの意識が向いているせいなのか。

「救世主だからね」

 隣つぶやかれる山田の声に同意を示して、乗り込んでくるその姿を目で追う。
 気づいたのか気づいていないのか、彼こと松下は隣の車両に乗り込んだ。
「呼ぶ?」
 問いかけるより先に山田は足を下ろしていた。靴を履きながら、僅かに小首を傾げる。

「声、かけない方がいいかな」

 彼にしては珍しい言葉に面をくらって、すぐに同じことを考えたのかもしれないと思い直した。
 自立とか独り立ちとかそういう言葉がよぎるのも、来年受験だからということにしておく。

「そうだね」

「松下君は、さ」
「うん」
「……やっぱ、いいや」
 気になりはしたものの深入りしない方がいいのかなと天井を見上げれば、年代を経た壁特有の消えない汚れが目に入る。
 三年前はどうだったっけと思いをよぎらせて、もっと純粋だった気がするなと言う結論に辿りついた。

「変わらないと、だめか」

「もしかして、それで怒ってたの?」
「怒ってたわけじゃないよ」
「落ち込んでたの?」
「どっちかというと」
「松下くんも変わるのかな」
 山田の視線が向くのがわかって、ああ、なんていうか。

「離れられないよねぇ」

 自分の意志とは無関係に環境が変わっていって、それに染まらずにはいられないとしてもそれだけは確かだ。

「誰が誰で離れる話だ?」

 大袈裟なくらいに飛び跳ねたのは、珍しく隣にいた山田も一緒みたいだった。
 仏頂面にいつも以上に眉を潜めた表情で立っていたのは、さっきまで話していた松下一郎その人で、どこか久しぶりだと思ったら前に会ったのは二週間前ぐらいだったなと思い出す。
「うわぁ、でたー」
 冷静に思考しつつも喋れない自分のかわりに、山田が単調に言葉を発した。

「なんだ。不都合があったのか?」

 見下げる視線が刺々しいは肌で感じているものの、どうしてこうなったかがわからない。
「うん。不都合」
「ちょっ、山田くん!」
 そんなハッキリ言うのと思うより早く、松下が右手に持っていた鞄を振り落としていた。
「いったっ!」
「ま、ま、松下くん?」
「いるなら言えばいいんじゃないのか?」
「そこで怒ってるの?」
 額を押さえながら問いかける山田の勇気がすごい。

「辛気くさい空気を二人でまき散らすな」

「えっ、そんなに暗かったの?」
 思わず口にすれば、振りあげた鞄を持ち直した松下が肩を落とした。
「他のやつらは知るか」
「カリカリするのはよくないよ、松下君」

「誰のせいかは明白だがな」

「カルシウム?」
「……埋れ木、こいつを外に放り出してもいいか?」
「えっ。いやいや! ダメだよ! 危ないから!」
「山田なら問題ないだろ」
「問題だらけだよ!」
 言っておきながら、ちらりとそのポケットの笛を確認してしまう。
 いざとなればメフィスト呼ぶだろうなぁ。
「松下君さぁ」
「なんだ」

「前髪、乱れてる」

 言いながら山田が伸ばした手が松下の前髪を撫でて、煩わしそうな顔をしつつも僅かに屈んだ彼の口が緩む。
「真剣な顔をしたかと思ったら、お前は」
「どうでもよくなったからいいや」
「自己完結した」
 さっきまであんなにテンションが左右されていたように見えたのに。
 思わずつぶやいてしまってから、この二人の会話は聞いていて楽しなと改めて思った。

「相変わらずだな」

「相変わらずかな?」
 それなら嬉しいと続けられた言葉に、なんとなくわかった気がした。
「お前はいつでも勝手だ」

「そうでいたいじゃないか」

 その通りだと納得しながらも、そこまで融通の利かない自分を振り返る。
「僕は嫌だがな」
「ええー。もっと気を遣えってこと?」
「お前の自分勝手さを埋れ木にわけろ」
「性格は切り取り不可だよ」
 人差し指をわざとらしく振って見せる山田を前に、松下が肩を竦めた。
「二人ともそのままでいいよ」
「埋れ木もそういうとこは相変わらずだな」
 山田に甘いのはよくないと続ける松下に、そんなことはないよと返しておく。

「そりゃ、埋れ木君は全体的に甘いからね」

「それもそうだな」
「そこまで甘くないんだけど」
 一体、どういう風に見られているのだろう。
「甘いな」
「甘いよねぇ」
 そこだけ意見一致するんだなと思いつつ、それもまた昔通りと言われればそうだった。
 思ったよりも変化はしてないのかもしれない。
 それがいいか悪いかは別として。
「あっ、さっき山田くんと駅の話をしてたんだけど」

「誕生日みたいってやつか?」

「知ってたの?」
「前に聞いた」
「あれ? したっけ?」
「って言っても一昨年ぐらい前の話だけどな」
 二人がどういう会話でそれに至ったのかは、わからないがその時期から山田はそう思っていたいうことだろうか。
「松下くんは過去に留まりたいと思う?」
 気になった質問を投げれば、松下は吊り皮を弄びながら小さく唸った。

「興味ないね」

「うわぁ」
「終わったことから学びとれても、そこに留まる意味はない。進むしかないだろ」
「いつか置いてかれそうだー」
「当たり前だろ」
 軽く伸びをしながら言う山田に対して即答する松下を見れば、唇を結んだところだった。

「――けど、そうだな。なんだかんだで追いつかれるんじゃないか」

「追わない、追わない。別の道を探すよ。松下君、マゾだもん」
「山田」
「何?」
「絶交な」
「うわあ。いやだあ」
「うさんくさい棒読みしやがって」
 そのわりには松下くんは楽しそうだよねという言葉を飲み込む。振り返れば窓の外に晴れ間が覗いていることを知った。

「松下君が忘れないならいいよ」

「忘れるわけないだろ」
「そこも即答だもんなぁ」
 小声すぎるそれは、かろうじて耳に届く。
「ただでさえ、ああ、いいか。やめておく」
「ただでさえ?」
 慌てて口元を覆う松下の頬はどこか赤くなっているようにも見えたから、それって寒さのせいだけでもないのかもしれない。
「とりあえず、だ」

「明日休みだし、どっか行こうよ」

「先に言うな」
「えっ、言って欲しかったんじゃないの?」
 見上げる視線がどこか笑っているような山田に、松下が顔を逸らす。
「それいい案だね」
 素直に同意を示して、さっきまでの考えていたことについては、後回しにすることにした。
 松下から珍しく振られた話題なのだ。これで行かないという選択肢はない。

「あったかいとこがいいな」

「肉まんでも喰ってろ」
「じゃあ、降りたらコンビニに行こうか」
 停車したのが適度な駅で、連れだって降りながら一度だけ振り返る。まだ人波にもまれたような電車の扉が閉まるのを眺めながら、次に乗り込む時のことを考えた。

 その時はきっとこうやって、三人で降りたことを思い出すのだろう。
 だとしたらそれで少しは進めるなと思いながら、よく似た前方の二人を追うべく二段ステップで階段を下った。

 駅を出たら凄く寒いだろうなと掠めた思考は、今のところ忘れたふりをしよう。

END


[2012/01/14]