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 昔からある店が好きな理由の一つとして、いつもその場にある安心感がいい。移住地を持たずに渡り鳥のごとく飛び回っている身としては、久々な場所だと変わってしまって目的地を見失うことも多いのだ。時間の経過とともに新しい建物が増え、古いものは無くなっていく。地図を持つのは無駄なように思えた。

 僕の持ち物など今では珍しくなった足元のブラウン管テレビで十分だ。
 最近は羽のない扇風機が増えているという中、堂々と店頭に置かれたそれを前にあーと声を発してしまおうか悩んでしまった。

 昔は何度かやったものだが、ホテルに泊まることが多くなったせいかクーラーを使うことが多くなってしまった。今度は扇風機がある民宿を探してみることにしよう。

 扇風機は止まっていると羽がついているとわかるのに、一度回ってしまえば円形のものにしか見えない。中心部分が穴だとしたら、まるでドーナツのようだ。

 奥に座る店主と思われるおばあさんが、ニコニコしながら僕を見ている。笑い返した。
 前はおじいさんが座っていたけれども元気だろうか。
 買い物の常連ではないので、向こうは僕のことなど覚えていないだろう。覚えているのなら変わらない姿に疑問を抱くに違いない。

「山田」

 右耳で響いた声に心臓が跳ねた。
 聞き慣れたというには別の意味で慣れていないそれに顔を上げる。
 声変わりというというのは成長には必要なことだそうだが、心構えができてないと聞く側としては問題ではないだろうか。

 どっちにしても同じだろうがね。

 動揺を悟られないように先程とは別の笑みを浮かべて、走って来た人物を見た。
 近くの高校の制服にショルダーバッグとヘッドフォン、学校帰りだろうか。

 僅かにチョコレートの匂いがした。友だちという表現に本人は首を傾げるが、同じ山田姓の山田真吾くんと一緒だったのだろう。

「やあ、松下くん」
「やあ、山田」

 笑いながら真似るように松下くんは言うと、さりげなく僕の足元のテレビを引き寄せる。
 これが立ち話で終わるのを防止していることに気づいたのは、わりと最近のことだ。

「いつ戻ってきたんだ?」

 定住地がない身としては、戻ってくるという表現も不思議な感じではある。
 ただ、そう、きっと、戻ってくるというのならこの場所なのだろう。正確にはもっと狭い意味だ。困ったことに。
 それを困ると表現するのもおかしな話だがね。

「いつ――日が昇っている時間だったことは確かだね」
 記憶を探る。そういえば、駅のホームに行く時も始発か最終でない限りは時間を確認しない。あとはホテルのチェックイン、チェックアウトが関わっている時ぐらいか。
 時計を持つべきかとも思ったが、そもそも待ち合わせをことなどほぼ無い。時間に拘束される理由もない。行く先々の時計でどうにかなるのなら、それは必要がないということだろう。

「時間を聞いた僕が馬鹿だったな」

 ため息交じりに言いつつも、松下くんは気を悪くしたわけではなさそうだ。
「いつなのか気になるのかい?」
「昼食を何時に食べたのかどうかが重要だったんだが、そのまま聞くのは唐突すぎるだろ?」
「駅から20分ぐらいの駄菓子屋にあるクッキーはおいしかったよ」
 聞けば、売り物としてというよりは趣味で作っているのを売っているとのことだが、代々受け継がれてきたものらしい。和風テイストのものが多かったのはそのせいだろう。

「食事というよりはおやつなんだな」

「あっ、松下くんに会えるなら残しておけばよかったね」
「重要なのはそこか」
 他に重要な点などあったのだろうかと首を傾げると、頭を撫でられた。
 思うところがあったが、こんな暑い気温の中で考えるものではない。
「会えるかどうかというのは重要ではないかね?」

「呼ばれたらどこにでも行くんだがな」

 それは言ってはいけないお約束である。
 甘えるのが下手なわけでも執着していないわけでもないのだが、それに頼るわけにはいかない。

 会えないと会いたくなる心理というのはあるがね。
 それは一緒の時間に慣れてしまうと変化してしまうのだろうか。

「この後の予定はあるか?」
「松下くんに会ってしまった以上、他の予定に意味など無くなってしまうね」
 行きたいところがあったわけではなく、いつも通り街を散策するつもりだったのだ。
 あるものとないものを確認するようになったのは、なくなってしまったものを覚えておきたいという気持ちが強いからなのかもしれない。

「それは悪いことをしたな」

 瞼を伏せつつも松下くんの口元は笑っている。
 きっと気持ちはまだここにあるのだろうとそれだけでわかった。
「松下くんはあるものだね」
「あるもの? 存在の話か?」
 気持ちの話もあるよとは口にしないでおいた。

 存在でいうならお互い不安定なのは確かだった。いや、それほど特別ではないのだろう。
 僕は僕自身がいつ消えるのかがわからないうえに、松下くんは危険なところであっても必要ならば飛び込んでしまう分、より不安定なだけだ。

「テレビの中には永遠もあるのだがね」
「いっそ箱の中に閉じ込めるか?」

 意味は伝わってしまっただろうか。真面目な顔で言われたその意図はわからなかったが、僕は首を振った。

「箱に入るのは僕だけで十分だよ」

 松下くんを閉じ込めてしまうなんて、そんなことはできない。
 姿を変えても、中身に変化が生じようとも、それでもやはり彼のことが好きなのは変わっていない。それなら、無理に時間ごと止めてしまう意味もない。

 止まってしまった僕が言うのもおかしな話だね。

 この身長差ははがゆくもあるが、それでも時間よ戻れとは思わないのだ。
「そうか」
 顎に手を当てて松下くんは一言告げる。何を考えているのか聞くことはしない。

 こういう時に口を閉じれば、

「山田」

 名前を呼んでもらえることを僕は知っている。

「何かね?」
「閉じこもるなら涼しいところがいいと思わないか?」
 思えば、扇風機があたっているものの外にいることには変わりがなかった。
 汗だくというわけではないが、それでもじわりと滲むものはある。

「そうだね」
「夕飯でも一緒にどうだ?」
「ドーナツかい?」

「人のことは言えないが、ドーナツはおやつであって食事には入らないらしいぞ」

「佐藤さん?」
 それを言いそうな人物の名前を出せば、案の定そうだったらしい。
 苦々しい顔をされた。それはどこかテレビで見た思春期の子どもが母親の話題を出された時に似ている気がして、僕は嫌いではない。

「一度、佐藤さんに連絡した方がいいかもしれないね」
 佐藤さんのことだから、夕飯を準備していることだろう。
 研究者体質なのか、努力家なのか、ちゃんとした料理を出してくるのだから松下くんのことを考えているのだなと思う。
「……はぁ」
 わかりやすい落胆の仕方で松下は携帯電話を取り出した。
「家に連れて来いと言われるぞ」
「佐藤さんが嫌でなければ、お邪魔したいところだね」
「嫌とは言わないだろうがな」

 それでも佐藤さんは今でも松下くんが好きで、そういう意味では僕のことをどう思っているのかというのは曖昧だ。嫌うほどではないが複雑な気はしているだろう。
 けれど。
 不機嫌そうな松下くんの声を聞きながら、僕は瞼を伏せた。

 こんな風に話す声は僕自身に向けられることはないのだよ。

 そういうとどこか嫉妬のようだ。残すほど綺麗なものではないが、胸に閉じ込めておくことにした。

END
[2012/07/18]