(sideaB)


 不機嫌そうな顔で「よい夏休みを」と言われると良いものを望まれているとは到底思えない。
 ただ、この炎天下の帰り道でそれに対していちいち反応するのも面倒だ。片手をあげて済ますことにする。

 長期の休みの間に旅立つというのは、学生ではなくとも当然だろう。実際、友人(というよりは悪友と呼びたい)山田真吾に関していえば、予想通り探検にでかけるそうだ。
 正確にはそういう名目で、悪魔探しということだろう。資金をどう調達して、どういう方法を使うつもりなのか気にならないわけではないが、さして聞こうとは思えない。

 あくび一つで歩きながら、肩にかけていたヘッドフォンを装着した。夏になると耳の周りに汗をかきやすくなるのがデメリットの一つではあるが、無意味に歩き回るよりは涼しげな音楽を聞いた方が脳に優しいだろう。
 制服のシャツの襟元を掴んで動かしながら、このまま電車に乗るのは嫌だなと思う。歩いて帰ろうかと思ったところで、思わず声を上げそうになった。

 最寄り駅に向かうためには当たり前のように大通りを進まなければならない。大混雑とは言えないがそれなりに人通りはある。ガードレールを挟んだ向こう、二車線を通過する車は多いが途切れないわけではない。向こう側の通りに昔からある電器屋が見えた。寂れた看板と今どき羽つき扇風機が販売されているが、店頭に並んだそれを眺めている少年がいた。ボーダー服の足元のテレビ、改めて確認しなくてもわかっていたが山田だ。友人とはまた違い間柄の。

 いくら文明が進歩しようともそれを使う人間がいなければ意味などない。コミュニケーションツールとなる携帯電話など、自分だけが携帯していたところで意味はないのだ。
 そんなどうでもいいことを考えながら、近くの歩行者信号まで足を速める。なんだったら、今すぐガードレールを越えてやろうかとも思うが、この通りは事故が多いそうなので控えることにする。
 自分がどうこうするのは構わないが、万が一、彼が巻き込まれたらどうしようもない。

 着けたばかりのヘッドフォンを肩に戻す。渡りきるまでに彼があの場にいるように願った。


 急いでいる時に限って変わらない信号機を越える。小走りに目的の場所に向かえば、先程と同じ位置に目的の人物はいた。
 テレビを足元に置いたまま回り続ける扇風機をじっと見ている。その短い髪がその頬や耳にあたっていた。ふいに視線が店の奥に向く。笑顔。
 誰かと一緒なのだろうか。それなら声をかけるのはよくないなとしばらく様子を見ていたが、奥から誰かが出て来る様子はない。

「山田」

 名前を呼ぶと丸くなった目が向いた。
 視線が合うなり山田が口元を緩ませる。それが先程とはまた別の種類のものだと気づけるようになったのが最近だというのだから、僕もまだまだなのだろう。

 いきなり声をかけたのだが、そこまで驚いてはいないようだ。
 本来の通学路とは違うルートを辿って来たので予想外なはずなのだが、考えてみれば山田そのものが神出鬼没だ。

「やあ、松下くん」

 いつも通りにのんびりとした口調に笑みが浮かぶ。

「やあ、山田」

 口調を真似ながら、無防備に置かれたテレビを自分の元に引き寄せた。
 予定外の遭遇である以上、山田がああ久しぶりそれじゃあとなる可能性がないわけではない。この後の予定を山田が持っているのなら別だが、そうでないのならば少しぐらいは一緒に居たいと思ってしまう相手なのである。

 互いの気持ちは確認済みではあるが、それで何か大きな変化があったかというとそうでもない。こうなると最初から互いの気持など知っていたような気もするから不思議だ。

 山田真吾にはそれは恋じゃないねと言われたのだが、ならばなんだというのだろう。いや、そんなことは後回しだ。どうにか山田の予定を聞きだして、引き留めるかが今は重大である。

 手っ取り早いのは食事の誘いか。それなら次の行き場所の予定があるとしても影響しないはずだ。
「いつ戻ってきたんだ?」
 昼だとすれば昼食は済ませていると考えられる。どこから戻って来たのかは定かではないが、長距離移動なら降りた直後に何か口にしているだろう。

「いつ――日が昇っている時間だったことは確かだね」

 帰って来た答えに失敗したと気づいた。
 山田は必ず学校に行くわけでもなければ、門限が決まっているわけでもない。引き寄せられるように各地に出かけ、そこで子どもにプレゼント与え、また別の場所へ移動する。
 特定の誰かを探して張り込むようなこともなければ、待ち合わせをすることもないので時計どころか時間など重要視していないのだろう。

「時間を聞いた僕が馬鹿だったな」

 迂闊だったとため息を漏らせば、それまで考えていたらしい山田が僕を見た。
「いつなのか気になるのかい?」
「昼食を何時に食べたのかどうかが重要だったんだが、そのまま聞くのは唐突すぎるだろ?」

「駅から20分ぐらいの駄菓子屋にあるクッキーはおいしかったよ」

 予想斜め上の返答だった。お菓子という意味では納得できる。
「食事というよりはおやつなんだな」
「あっ、松下くんに会えるなら残しておけばよかったね」
「重要なのはそこか」

 そこまで気を遣わなくてもいいのにというのは、山田には言わない。彼自身がおいしいものは共有したいものだと言っていたのだ。そのおかげというべきかそのせいなのか、昔ほど甘いものが苦手では無くなってしまったことに関しては、驚かない相手がいないぐらいには驚かれた。

 山田が言われた意味がわからないと首を傾げるのを見て、風に揺られている頭を無意味に撫でた。この感触も好きだと思う。

「会えるかどうかというのは重要ではないかね?」

 深く考えずに口にしているのだから、問題だ。
 そう言われると困る。

「呼ばれたらどこにでも行くんだがな」

 盲目というほどではないが、多少のことは放り投げたいと時がある。それがよくないとわかっているからこそ、その分の反動ある今のような時に声をかけてしまうのかもしれなかった。どこかで発散してしまえば、持続し続けずにすむ。

「この後の予定はあるか?」
「松下くんに会ってしまった以上、他の予定に意味など無くなってしまうね」
 それも無意識なのだろうか。そうなんだろうな。
 けれど、それを聞く相手が僕でよかったとは思うのだ。
「それは悪いことをしたな」
 気づかず笑みが浮かぶ。他に予定があって言われると喜ぶべきなのかはわからないが、建前は別として本音はそっちだ。

「松下くんはあるものだね」

 唐突に山田がつぶやく。話の流れがわからなかった。
 ある、有る、或る、在るだろうか。
「あるもの? 存在の話か?」
 存在だというというなら山田に対して言いたい。
 彼がテレビの中に入れるようになって、その姿でどれだけすぎたのかはわからない。少なくとも当時小学二年だった僕は卒業してしまっている。長いというには十分だ。

「テレビの中には永遠もあるのだがね」

 その言葉にいくつか合点が言った。この辺りの景色も小学校の時に比べれば変わってしまった。彼の横で回り続けている扇風機の姿もあまり見かけなくない。残された記録はその媒体が劣化することはあっても中身は変わらないのだ。
「いっそ箱の中に閉じ込めるか?」
 魂と肉体を切り離された蝶は、管理状態さえ保っていれば、そのままの美しさを維持できる。

「箱に入るのは僕だけで十分だよ」

 もしかしたら、山田は時間と切り離されてしまったかもしれない。
「そうか」
 標本の蝶は幸せかと問われれば否と答える。それは自然ではないからだ。蝶が望んだことではない。

 では、山田は?

 山田の幸せ、な。

 好きと完全理解は別だ。佐藤のことをわかった気でいて失敗した前例がある以上、知ったつもりでいるのは危険だ。
 ただ。

「山田」

 こうして名前を呼べば、

「何かね?」

 と、笑って応えてくれるということは知っている。

「閉じこもるなら涼しいところがいいと思わないか?」
 気づけば扇風機一つで立ち話だ。
 佐藤には会話としての文句は言うが、実のところ気温はそこまで気にしていない。体力もある方だ。
 しかしながら、山田がどうなのかはわからないのである。そもそもちゃんと水分を摂取しているのだろうか。
「そうだね」
「夕飯でも一緒にどうだ?」
「ドーナツかい?」
 今週が100円セールだとやはり知っていたか。
 その目の輝きに釣られたいのは山々だが、頭をよぎったのは佐藤だった。
「人のことは言えないが、ドーナツは食事には入らないらしいぞ」

「佐藤さん?」

 切り返しがまさしくその通りだった。
 そこまで見破られているとは、そんなにわかりやすいのだろうか。あの男は。
「それなら、佐藤さんに連絡した方がいいかもしれないね」
 山田にその名前を出させたのは失敗だった。
 今日も夕飯を作っているのだろうという予測だろう。連絡もなしに帰りが遅ければ連絡してくるのがあのスーツ男だ。

「……はぁ」二人きりを想定して話を進めていたのだが、上手くはいかないものだ。「家に連れて来いと言われるぞ」
 嫌がらせという意味ではなく、他なら放置してくれるだろう。ただ、食事となると山田ともどもまともじゃないせいか、夕飯に呼ばれてしまう。
 それもまた優しさなのだというのはわかってはいるのだ。

 携帯電話を取り出して着信履歴を見る。佐藤と山田真吾しかいなかった。複雑である。佐藤を選択して電話番号を発信した。
「佐藤さんが嫌でなければ、お邪魔したいところだね」
「嫌とは言わないだろうがな」
 心配なのはショタコンと思われる佐藤が、万が一にでも山田に手を出しはしないかということだ。

 自らの放った言葉が相手にどう作用しているのか山田はわかっていない。佐藤のような奴は優しさに弱いのだ。

『メシア! 今、どこにいらっしゃるんですか!』

 開口一番それだ。腕時計の時間を見る限り許容範囲だというのに、何をそんなに焦っているのだろう。
「今、山田と一緒なんだが」
『その言い方ですとテレビくんの方ですね!』
「……なんでわかったんだ」

『呼び方に明らかな落差がありますけど? そうでなくても私には筒抜けですよ』

 まるでストーカーのような言い方だと思ったが、間違ってもいないだろう。
 前に部屋に行った時に日記を見つけた。開けば、どう見ても僕について記録された観察日記だ。即座に燃やした。蛙男がなぜか残念そうな顔をしていた理由だけが、今になってもわからない。
「それでだな」
『夕食ですね。ちょうど鍋をやろうと思ってたんですよ! てっきり夏休み前日なので真っ直ぐ帰って来るかと思ったのですが、遅かったので驚きましたよ。山田くん連れて、早く帰ってきてください!』

「話を聞けよ」

『きっと山田くんも長旅でお疲れでしょう? 二人だけで食事となったらドーナツと汁そばになりかねないんですから、しっかり食べてください!』
「まあ、そうだな」
 実際、ドーナツとの回答を山田からもらったばかりだ。
『それなら決定ですね。山田くんが来るならおやつの用意もしておきます』

「楽しそうだな、お前」

 僕の機嫌が悪くなればなるほど、佐藤の機嫌が良くなっている気がする。
 精神的によくない。この家ダニが。

『メシアの方が楽しそうですよ? それじゃ、準備の続きがあるので』

 言うだけ言ってすぐに切れた。
 どちらかというと怒った僕が会話を強制終了させることの方が多いだけに珍しいと思ってしまったが、最初の焦った様子からして食事の準備中というのは本当なのだろう。

 山田は鍋とか好きなのだろうか。
 携帯電話を戻しながら視線を向けると、俯いた山田の口元が強く結ばれているのが目に入った。

「山田?」

 見たことのない表情だ。顔を上げた山田はいつも通り笑みを浮かべる。いや、少しぎこちないか。
 何を考えていたのだろう。

「今日のご飯は何かね?」
「あ、ああ。佐藤が言うには鍋らしいな」

「鍋……鍋というとあれかね。弱肉強食の争奪戦といわれる」

 真剣な眼差しで言われてしまった。どのアニメの影響だ。
「心配するな。佐藤は叩き潰せばいいし、蛙男は野菜メインだ」
「叩き潰しては可哀想ではないかい?」
「あいつはマゾだから大丈夫だ」
 と、また立ち話になりそうだ。
 移動すべくテレビを手に取れば、山田がそれを目で追った。

「仲がいいのだね」

「僕はそう思わないけどな」
 返って来た相槌に違和感。気のせいではないことはわかるが、理由がわからなかった。
 聞いてしまっていいものだろうか躊躇してしまう。ただ、違和感を放置すると失敗することを僕は経験している以上、同じことを繰り返すわけにはいかない。

「山田」
「何かね?」
「明日から夏休みなんだが、」少しばかり願望が含まれていて卑怯な気がするが、他に思いつかなかった。「一緒に旅行でも、どうだ?」
 こういう時に目が合わせられなくなるのは、山田が喜ぶ瞬間がわかりやすいせいかもしれなかった。
 逸らされた視線に気づかれたのか、隣にあった小さな手が軽く服を引く。

 小さく深呼吸して視線を向けた。困ったような笑顔を浮かべた山田が僕を見ている。既視感。
 いつかの月の夜を思い出してしまった。

「松下くん」

 先など言わせてなるものかと服を握った手を取る。
 見開いた目に浮かんだ動揺は、笑顔に消えた。

「それは了承でいいんだな」

「まあ、直接的ではないけれどもそうなるね」
 呼ぶのは駄目でも誘いには多少応じてくれるというのだから、ついそれを利用してしまいそうになる。

「それなら、僕も今日は大人しく佐藤に付き合ってやるさ」

「甘いね」
「砂糖菓子と焼き菓子なら僕は後者を選ぶけどな」
「それなら僕は無糖の珈琲を選ぶことにするよ」
「苦いな」

「今なら、苦いのも悪いだけではないと思うのだよ」

 何の話だろうかと思えば、山田はホホホッと笑っただけで続きを教えてはくれなかった。それでもあの違和感は無くなっていたのでよかったのだろう。
 聞こえてきた隣の鼻歌が懐メロと呼ばれるジャンルで吹きだしてしまう。

 どうやら、山田真吾が望もうと望まなくとも、僕の夏休みはよいものになる以外になさそうだ。

END
[2012/07/18]