(『it ran.』の少し前の話)


 シャーペンの走る音が途絶えた。

 差し込む橙色。開けっぱなしの窓から入り込んだ風がカーテンを揺らす。
 壁を背に頬杖を眺めていた本から顔を上げた。右側に座る二学年上の埋れ木がいつの間にか机に突っ伏している。
 人の出入りがまばらな教室。二時間も鎮座しているのは、彼と松下だけだった。

「休憩したらどうだ」

 先程までぶっ通しで問題を解いていたのだ。それぐらいは許されるだろう。加減を知らないのは自分も含めこの場に居ないもう一人にも言えることではあったが、一番感受性が豊かな彼が受験生であるというのが気になった。

「うん」

 返事は一言だけ。顔を上げる様子はなかった。
 栗色の髪が風に揺られているのを見ながら、数ページしか進んでいない本を閉じた。
 その音は埋れ木にも届いただろう。

「進路って難しいね」
 そう話題を振ってきた。
 そういえば、そんな用紙を提出する義務らしきものがあったなと思い出す。

「世界を救う方法を教えてくれる学校ってないのかな」

「そんな学校があったら救世主なんていらないだろう」
 卒業した子どもが大人になるなり世界を救うのだから、とっくに平和は訪れているに違いない。
 ただ、それは教えられるものだろうかとも思った。
 細かいところは違えど友人二人と松下で三人、この学校には世界平和を夢見る人間がいるが行動方針はバラバラだった。

「まあ、その方がいいけどな」

 存在意義などあっても無くても構わなかった。
 望みが叶うなら最終的にそれを誰が達成してもいいのだ。
 ただ、それが原因で誰かが傷つくのが嫌なだけである。特に友人二人に関しては。

「そう、だね」
 どこかぎこちない答えに、松下は首を傾げる。
「一応、家に近い場所を第一志望にしたんだけど……」
 松下の行動が見えない埋れ木は話題を変えた。
「先生にはもっと上を目指してもいいって言われたんだけど、そうすると交通費がかかっちゃうからさ」
 家には迷惑かけたくないよね。
 実家暮らしのわりに埋れ木がそんなことを気にするのが、松下としては不思議だった。

 高校生になったらバイトがしたいと先日申し出た彼に対して、父親は大反対だったそうだ。この理由が学生の本分は勉強ということではなく、家の事は心配せずに好きにやればいいということだったのだから、いい親を持ったなと思ったものである。

 現状に不満もないので羨ましいと感じることはないのだが、母親も兄弟もいない身からすればそれがどういうものなのかわからなかった。

「反対ぐらい押し切っても罰は当たらないと思うぞ」
「そうなんだけど」握っていたシャーペンをゆっくりとノートの上に置く。「いつまでも一緒に居られるわけじゃないから」
 何も言えなかったのは、思い当たることがあったからだ。

「いつかは選ばないといけないよね」

 その時が来るとしたら、彼は普通の子どもよりも救世主を選ぶのだろう。実際にはすでに選んでいるのかもしれない。
 答えは決まっている。
 それでもどこか後ろ髪を引かれるような気分で、何より埋れ木の場合は松下が思っている以上にそうなのだろう。

「事情は違えど、みんなそういうものと戦っているのかもね。どこも火花が散ってるみたい」

「それをどうにかしたいと思っているんだろうが、今は自分のことが先だっていうのもわかってるよな」
 その頭が僅かに揺れた。釘をさしたのだから当然である。
「うん」
 それでも見える以上は気になるのが、埋れ木真吾という人物だ。
 小さくため息をついて、閉じた本を開く。

「寝てもいいぞ」

 顔をあげた埋れ木と視線があった。彼は眉尻を下げて笑う。
「そしたら、学校が閉まるまで起こしてくれないでしょ?」
「それが嫌なら、僕ではなく山田を呼ぶだろ?」
 誰よりもその性質や特性を見抜くのが上手な埋れ木は、ちゃんとそれを計算して行動している。とは言うと誤解を招きそうだが、自分勝手にではなく、相手の都合を考え、ある時は相手のためにということが多い。
 今回の場合は松下に頼ってきたのだろう。話を聞いて付き合うぐらいなら、あの悪魔ではないが、朝飯前だ。
「見透かされてるね」

「これぐらいなら、山田も気づいているだろうよ」

 彼は邪魔や急かすことの方が多い。自分で考える問題や制限時間が短いものをやる時には適している。
「それでも付き合ってくれるんだもんね」
「人望だと思えばいいさ」
 それぐらいのことを彼はしてきているはずだ。

 誰かに与えたものが、同じ誰かから返って来るとは限らない。巡り巡って全然違うところからやって来ることもあるのだ。

「それじゃ、甘えておこうかな」
「そうしろ」
 再び突っ伏した彼を一瞥して、なるべく音を立てないように本を閉じた。
 雑音は徐々に静けさに向かっている。
 去年との違いなどわからない空を眺めながら、松下は目を伏せた。


「受験とは即ち生存競争ですよ。誰がより頂点に君臨するべく、時間と体力を削って勉学に励み、その後の将来をよりよいものにすべく戦うのものなのです」

 こたつの上で両手を組んだ佐藤は真剣な眼差しでそんなことを言っているが、松下はちまちまと箸を動かしながら黙々と食べる蛙男を眺めていた。
 テレビではお受験に備える親子に密着したドキュメンタリーが流れている。

「頭がいいだけで人生万事うまくいくかと思ったら大間違いだがな」

 いくら積み上げても誰かの手であっさり壊されてしまうこともあるのだ。
 山田正夫はどうだったかと頭を掠めたところで、蛙男と視線が合う。
「後悔してますか?」
「いや」
 答えはするりと出た。
 殺される覚悟があった上ですべて行動している。誰かを殺すということはそういうことだ。

「……また二人の世界ですか。そうですか」

 先程が嘘のように負け組のような顔をした佐藤が、皿の上の焼き魚から丁寧に骨を抜き取りながらつぶやいた。
「眼鏡、替えたのか?」
 一見すれば同じ眼鏡のようだが新品のようなそれを示すと、ああと蛙男は声を漏らす。
「佐藤が」
 ふいに名前を呼ばれ、佐藤が勢いよく顔を上げた。

「そうなんですよ! 蛙男さん、昨日寝ぼけて踏んだ蔓をそのままにしてたんですよ! 折れているのをテープで補強しているのみていたらもう! 不憫で不憫で!」

「あまりにも可哀想なものを見るように見られるのは、全くもって腹立たしくはあったんですがね。というか、佐藤、喋る時ぐらい箸を下ろせ」
 よほど自分の話題が出たのが嬉しそうだった佐藤は、ハッとしたように箸を置いた。
「……蛙男さんって、レンズに罅が入ってもそのままにしてそうですよね」
「さすがに視界を遮られたら考えるがな」
「視力悪いんですから気をつけてくださいよ。危ないです」

「別にそれぐ……それもそうだな」

 言い直したそれに続く言葉はなんとなく察しがついた。
 視力など魔法一つでどうにもでもなる。それでもそうしないのは、蛙男なりの考えがあってだろう。
 詳しくは語らないのなら、それは聞くべきことではない。

「それ一つで世界が変わるというのなら便利なものだな」

「メシアも掛けてみたらどうですか?」
「いや、度が強すぎるだろう」
「いいじゃないですか。メシアが掛けた眼鏡をまた掛けるんですよ」

「誤解を招く発言をするな」

 そうは口にしつつも眼鏡をはずすのはどうなのだとも思ったが、素直に受け取っておくことにした。
 冷えた金属に触れながら、それを見よう見まねで耳に掛ける。
 景色が歪んだ直後の衝撃に顔を顰めたところで、すぐに持ち主に眼鏡をとられた。

「失礼しました。やはり度が強かったみたいですね」

「そうだな」
 こめかみを揉みながら答えれば、にやにやと笑う佐藤が目に入った。
「なんだ」
「いいえ」
 首を振る佐藤はやはり楽しげだ。
 馬鹿にされるのは好きではないが、放置しておいてやる。
 気になっていたことの確認はできた。あとは、これをどうにか利用できないものかということだ。

「大丈夫ですか?」

 佐藤と違って松下を気にかける蛙男は、どこか罰が悪そうだ。
「お前が気にすることじゃあないよ」
「しかし」
「眼鏡をはずしたところを見るのは久しぶりだったしな」
 安心させるためだけではない本音を口にすれば、その目が丸くなるのが見えた。
「そうで、すか」
 視線を逸らした蛙男が乗り出していた身を引いた。

「蛙男さんってわかりやすいですよね」
「お前に言われると腹が立つ」

 それは同感だと心の中で返して、松下は小さく息を吐いた。
 悪い意味ではない。


「どうしたの? 何かあった?」
 驚いた直後の第一声はそれだ。
 通り過ぎて行く最高学年の生徒を一瞥してから、待ち人は松下を見る。

「もしかして、山田くんに何かされたの?」

「どうしてそうなる」
「いや、だって、松下くん」
 言いかけて、埋れ木は首を振った。
「昨日のこと気にしたんだったらごめんね」
 そうやって困った顔をされると、何もしていないのに悪い気になってしまう。
 珍しいことをしている自覚はあるので、それも仕方ないのかもしれない。

「いや、早めに渡しておいた方がいいと思ってな」

「何か忘れてた?」
「いいや」
 質問に答えて、持っていた鞄から手の平より少し大きめのサイズのケースを取り出す。
 差し出せば不思議そうな顔で埋れ木が受け取った。
「開けてもいいの?」
「ああ」

「なんか、結婚指輪を渡されたみたい」

 はにかんだように笑われて、どうしたそうなったのだと胸の内だけでつっこんでおいた。
 ケースがメインでもないのに丁寧に開ける様子を見ていると、じれったくもなる。
「えっ?」
「心配しなくても度数は入ってないからな」
 驚く埋れ木が中から取り出したそれは、どこにでもありそうな眼鏡だ。
 赤いフレームを指先でなぞって、疑問そうな顔をした埋れ木は耳にかける。
「あれ? 度は入ってないんだよね?」
「ないぞ。違うように見えるか?」

「うん。景色がハッキリしている気がする」

「眼鏡だからな。そのイメージがそう見せてるんだろう」
 用事はそれだけだった。軽く手を振って踵を返そうとすれば腕を取られる。
「松下くん」
「なんだ?」
 埋れ木の目をレンズ越しに見るというのは新鮮である。

「……ううん。ありがとう」

 明らかに何かを言いかけたのがわかったが、問いかける前に手を離された。
 なんとなくそれが距離を置かれたような気もしたのだが、あまり埋れ木の時間を邪魔しても悪いのでその場を離れる。

 眼鏡は見えやすくするものではあるが、それを身につける相手によっては逆に見えなくなってしまう。
 恐らく、埋れ木は見えすぎるタイプだ。それをちょっとばかり修正できるように魔法を掛けた。それだけのことである。

「お節介になったものだな」

 誰の影響かなんて考えたところで意味がない。
 鞄から取り出した読みかけの本を開きながら、誰にも気づかれないように少しだけ笑った。

END

[2012/02/04]