(世紀末大戦版)


 懐かしい煙草の匂いは、闇夜が似合う。

 本来、この時間が似合うのは松下の方だ。それが時間の経過とともに、状況が変わって、さらに現在に至るまでに別な形になっていた。

 いくつもの命が埋まる土の上。座る松下は靴を脱いで、足を下ろしていた。ひんやりとした空気をドーム型で循環させている。
 幽霊の手が冷たいのではなく、魂を失った身体が冷たいのだと松下は思う。
 死んだ自分の温度を確認できはしなかったが、多分、冷たかったのだろうと想像した。

 座り込んだ膝に頬杖をつく。遠くで聞こえる虫の声が鼓膜を揺らした。
 こんなにも静かでも松下は一人ではない。

 隣に座るのは、居ないはずの存在。かつては、すぐ傍にいた者。

 これまでの時間を思えば、一瞬として片づけられるような時間ではあれど、それは松下にとっては大切な記憶だ。それに痛むことがあれども。
 彼の名前は佐藤。松下の父の部下であり、家庭教師であり、家ダニであり、使徒であり、そして裏切り者だ。

 ただ、そんな肩書などとうに意味はない。今の佐藤の存在を示すのが煙草というのは、なんとまあ希薄なものだろう。

「吸いますか?」
 紫煙を眺めていたのに気づかれたらしい。僅かばかり眉を潜めた佐藤が、唯一の明かりを松下に示す。
「もらおう」
 それに躊躇なく答えて手に取れば、ため息が一つ返って来た。

「八歳児の身体に煙草とは、とんだ不良ですね」
「中身と年齢が同じだという先入観は、厄介なものだな」
 それなら、お前はどうなんだと言いたくなるのを堪えるかわりに、そう口にする。
「初対面ではそれしか相手を判断する術はないでしょうに」
 吸ってみた煙草は、珈琲と同じ苦いと表現できるものではあったが、美味くはない。

「平気そうでなにより」

 厭味ったらしく響いた声に、一瞬だけ意味を考える。
「なんだ。噎せるのを期待してたのか?」
「まさか」
 看破されてもなんも感じないであろう適当さで、佐藤は言う。
 おまけにわざとらしく、肩を竦めて見せた。

「まずいなら返してもらえませんか?」
「まずいなら、それを吸わせるわけにはいかないだろう?」

「……俺にはそれが口に合うんですよ。あいにく、上等な煙草なんて口にしたことがないので」

 変わらないしかめ面に、引き攣る口角がオプションでついてきた。
 いらないセットはお断りしたいところだ。
 しかし、何をそんなに怒っているのかは松下にはわからない。
 もしかしたら、先程から魔法陣に素足を置いているのが悪いのかもしれない。

 隣に置いていた靴を履きながら、この魔法陣の意味を考える。
 世界を繋げるには、入口と出口が必要だ。そして、今回の場合、出口と入口は同じだ。

「そもそも俺に用があったんではないですか?」

 松下の手元を睨みながら、佐藤は言う。
 それでは、煙草に話しかけているようにしか見えない。
 ただ、何となくその言葉は自分に向けて放たれているような気がした。

「用はないさ」
「なら、なぜ呼んだんです」

 いや、もとめ、うったえただけだ。と言えば、また怒られてしまいそうだ。

「答えが必要か?」
 見上げれば、歯ぎしりすら聞こえそうな佐藤の表情が目に映る。
「意味がないなら、よけいなことはしないでください」
「ないわけでもないさ」

「そうしなくても構わなかったことでしょう?」

 どうだろうかと腕を組む。振り返ってみると、必要であると断言するには個人的な感情すぎた。

「時間の無駄ですよ。メシヤ」

 松下の指先の煙草を奪い取り、佐藤がそれを口に含む。
 勢いを着けて立ち上がった彼のスーツの皺が、その細い指によって整えられるのを眺めた。

 間違いを正さねばならないのならば、どこが間違いだろうか。

「無駄か?」
 完全に真っ直ぐとは言えない皺を眺めながら、漏れた言葉は独り言のような響きがした。
「過去に縋るほど困ってもいないでしょう?」
「確かに困ってはいないな」
「本当、最初からわけがわからない人だ」
 吐き捨てるように言って、佐藤は腰に手をあてる。
 頼りない煙が漂うのを眺めながら、頷かないかわりに目を細めた。

「うまくいくかもしれない程度の認識だったんだ」

 偶然に見つけた本に書かれていた方法。蘇生でもなく、魂を器に入れるわけでもなく、悪魔でもなく、一夜限り望む者を呼び出す魔法。
「けど、誰でもよかったわけじゃない」
 例えば、母を呼ぶこともできたのだろう。それでもそうしなかった。
 なぜだか、最初に浮かんだのは目の前に立つ男だった。

 利き手を下ろした佐藤と視線が合う。
「……何か言うかと思ってました」
「そのつもりだった」
 最初は、佐藤に会えたらどうするかと考えていた。

「その必要がなくなっただけだ」

 実際に現れてみれば、それがすべてどうでもよくなった。
 死んだ人間は生き返ることはない。現れた佐藤は変わらないように見えて、それでも現世に立つ存在は軽かった。
 それが知りたかったのかもしれない。

 死んだと聞かされても死んだところを知らない。蛙男が嘘をつくとは思えなかったが、もしかしたらと思ったのだ。
 生きて、また会えるかもしれないという幻想は、本物になった。

「もう、こんなやり取りはごめんなので、俺のところには来ないでくださいね」

「心配せずとも行けないさ」
 天国でも地獄でもなく、きっと僕に次はない。
 無理をしすぎたのだとわかってはいる。決められたルールをほとんど破ってきた。ルール違反のこの身体に、輪廻転生なんてルールはあっても適応されることはないだろう。

「あなたは生き地獄が丁度いいって言ってるんですよ」
 ため息をついた佐藤は、松下が想像してもいなかった答えを返してきた。
「残酷なことを言うな」

 それならいい。それがいい。
 全部背負う覚悟ならできている。踏みにじったものも守っているものも持って行くつもりだ。

「笑いながら言われると薄ら寒いですよ」
 それでもやたら心地がいいのだから、仕方がない。
 口にしたのは酒ではなかったはずだが、何かが身体に混じったのは確かなのだろう。

 煙草だろうか。

「はははは」
「笑い声あげても同じですからね」
 言葉と一緒に佐藤の爪先が松下の足を小突いた。
「なに、気分の問題だよ」

「では、俺が消えるのを見たいというのも気分ですか?」

 一晩限りということは、夜明けと共に魔法の効果は消える。
 童話ならば、その先にハッピーエンドでも用意してくれただろうが、現実はもっとどうしようもないものだ。

 だからこそ、千年王国が必要だ。ないなら、作ってしまえばいい。
 バッドエンドが無くなれば、残るのはハッピーエンドだろう。
 果たして、佐藤との邂逅はどちらになるのだろう。

 とりあえず、夢から覚めるかのような朝日と一緒に佐藤が消えるのは癪だ。
 彼が僕を消したのだから、僕が彼を消さなければ平等ではない。

「それは見たくないから、終わりにしよう」

 文字を消していた足をどかして、松下は隣に転がっていた硬い石を手に取った。
「いいんですか?」
 意外そうな声。それこそが、松下には意外だ。しゃがみこんだ体勢のまま視線を向ける。

「本来あるべき姿に戻るだけだろう。お前を僕みたいな存在にするつもりはないさ」

 決められた規則からはずされた存在。
 自分が自分であると認識できるというのなら、不完全で不安定なこの身一つを削ったって構わない。

「どこまでだってお前は人間だよ。佐藤」

 それでいいのだ。彼の姿が自分の記憶通りであることに異常性があるとしても、そう思う。
 別れの言葉を考えて何も思いつかなかったから、呪文を唱えた。

 記号に淡く光が灯る。不気味で静かな輝きを浴びて、ぼんやりと何かを思いだそうとしていた。それでもそれに意味などないと、顔をあげる。

 少し背伸びをすれば鼻が届きそうな距離に、佐藤がいた。額に触れたそれに温度はない。ただ、無機質な感触。

「どうしたんだ。突然、キスなんかしたりして」

 決められた台詞をなぞるようにそんなことを口にした。
「俺はあんたの幸せなんて願いませんよ」
 何かに逆らうように佐藤はそう口にして、初めて見るような笑みを浮かべる。

「ただ、俺を呼ぶなら迎えに来てやってもいい」

 それで最後。それが最期。

「考えておこう」

 誰もいない。光も消えた場所でそうつぶやいて、松下は笑った。

END



[2011/07/14]