落ちてきた水滴がその頬を流れて、一瞬だけ涙のように見えた。
 そんなことを言えば否定されるのはわかっていたので、思うだけに留める。

 打ちつけられ、跳ねる水の音。アスファルトの匂い。ただ集中すれば、僅かに珈琲の香りが混じっていた。
 隣に立つ少年は内側と外側を閉ざすシャッターに凭れかかりながら、じっと目を閉じている。

 耳に届くのは自然の騒がしさ。水をたっぷり吸った衣服は重さを伴って身体を押しつぶすようで、薄ぼけた風景に曇り空とくれば憂鬱な気分になりそうだ。
 それでも、妙に落ち着いているのは隣に立つ少年のおかげだろう。張り付いた彼の髪を伝って、再び滴が一粒、その青白い頬を撫でた。
 立ったまま寝ているのかと思った。ほとんど眠らないこの救世主は、そうでいた方がまだ安心できるのかもしれない。
 しかし、考えを読まれたのかその瞼が小刻みに二、三度上下して、持ち上がった。

「なんだ?」
「いえ、何でも」

 首を振って、その隣にしゃがみこみ。その方がずっと声が聞き取りやすいと思ったのである。
 年の差と同じくらいに厄介なこの身長差で、どんどん見える世界がずれていくのを止められない。
 例えば、この少年――松下が大人になればと考える。けれども自分のようにはならないのだろうと思った。

「雨、止みませんね」
「しばらく降り続けるだろうな」
 空を見ることもせずにそう言う。急にその手が伸ばされたかと思うと、ネクタイの端に触れた。

「お前は雨男か」

 水玉模様のそれは、言われてみればこの天気によく似合う傘の色だ。
「私のせいですか?」
 なんて理不尽と笑みを零せば、視線の向こうで松下が目を伏せる。
 水滴がまた彼から落ち、足元を跳ねた。

「この家ダニめ」

 それにきっと言葉通りの意味なんてないのだろう。
 いつもの不機嫌そうな表情ではなかった。
「大人になると寄生して生きるしかないんですよ」
 同僚に上司に会社に家族に、愛しい誰かに。
 顔色を窺って、自分を押し殺して、あの雲のように水を貯め込んで灰色に変わる。

「なんだ。大人になれば、一人でも生きていけるとでも思っていたのか」

 小さな指先が濡れたネクタイを辿った。湿った手触りなど気持ち悪いだけだろうに。
「ええ」
 何でもできるのだと、松下ぐらいの年の時には思っていた。
 望んだものを叶える力が手に入ると、本気で信じていた。
 それが魔法か実力かということではなく、そうだろうと漠然と思い描いていたのである。過程などをすっ飛ばして、望みが叶う瞬間を明確に描けた。

「メシヤはどうなんですか?」
 ネクタイを握った手で引っ張られたら、苦しくなるんだろうと頭の片隅で考えながら問う。
「僕は平気だ」
 迷いなく言う声の真偽など確かめる術はない。
 それをハッキリさせようとも思わなかった。
 投げやりになったわけでも興味がないわけでもない。
 どちらにしろ、覚悟はしているのだろうというのはわかっているからだ。

 いつか、一人になるかもしれないと松下は知っている。
 彼の最期までついていきたいという気持ちと、そんなものは見たくないという思いの中間地点で、目を閉じた。

「そうですか」
「縛りつけるつもりはないサ」
 首元が僅かに軽くなり、冷えた空気が入り込みのを感じて松下を見た。
 解かれたネクタイを握り、彼は少し笑う。

「また加減を間違えて、押しつぶしたくはないからな」

「そんなことしましたっけ?」
「なに、前世の出来事だ。気にするな」
「私の一生よりも先に、転生するとはさすがメシヤ」
「蛙男みたいなことを言うなよ」
 眉を顰める松下に向けて、手を伸ばす。

「ネクタイを返してもらえませんか?」
「なぜだ?」
「首が冷えるので……それとも、結んでくれるんですか?」
「締められたいのならな」
「それもいいですね」
「よくないよ」
 するりとネクタイが首に巻かれる。
 息のかかるような近さで聞こえる呼吸を聞きながら、その指先の動きを眺めた。

「お前の自虐は痛々しいんだ」
「自殺志願者というわけではないですよ」

 そんなつもりはない。ただ、まあ、相手が松下ならそれは悪くないかと思っただけの話だ。
「そうだとしても危なっかしいんだよ」
 きゅっと元の位置に戻ったネクタイは、松下の温度を吸って温かい気がする。
「それはメシヤの方でしょう?」
「僕は最初から綱渡りをしているだけだ」
「下にマットはない分、よけいに危ないではないですか」
 襟元の結び目に触れながら、身体を離す松下を目で追った。

「落ちなければいいだけだ」

「落ちますよ。落ちたではないですか」
 忘れもしない、いつかの光景が頭をよぎる。
 同じではなくても似たようなことになるような気がした。
 松下は完璧なように見えて、実は所々が足りていない。
「なら、言い変えよう」
 仕切り直すように一呼吸。

「僕を落とさないでくれよ。佐藤」

「私を捨てないでくださいね。メシヤ」

 言い終わると同時に、松下の顔が歪んだ。
 それを確認する間もなく、結ばれたネクタイが引っ張られて呻くが彼は手を緩めない。
「この家ダニが」
 今度こそ、殺気混じりに松下が声をあげて、何か悪いことを言ったかなと考えようとしたが酸素不足ではそれもかなわなかった。
 遠くで蛙の鳴き声。その方向に顔を向けた松下が、ようやく手を離す。

 咳き込みながら、走り寄って来る足音を聞いた。
 見れば、蛙男が傘を手に駆け寄ってくるところで、そういえばこの季節の彼は機嫌がいいのだというどうでもいいことが頭をよぎる。
「何かあったんですか?」
「見ての通り、雨宿りしていただけだ」
 両手を広げて松下が言う。蛙男が一瞬だけ視線を向けたが、聞くべきではないと判断したのかそれ以上は口にしなかった。

「帰るぞ。家ダニ」
 不機嫌そうな声は先程が嘘のようにいつも通りで、雨は相変わらず止む様子はなかった。
「止みそうにないですね」
 差し出された傘を広げながら、つぶやきが漏れる。

「その時は僕が止ませる」

 答えはすぐに返って来た。
「メシヤは雨がお嫌いですか?」
 蛙男の声には残念そうな響きが含まれている。彼は名前から連想できる通り、雨や水が好きなのだ。
「心配するな。この雨の話じゃない」
 パンと音を立てて、松下の手元で傘が咲く。
 透明なビニール傘越しに見える風景に流れる水滴が混じた。

「帰って、珈琲が飲みたい気分だ」
「でしたら、急ぎますか」
 蛙男が言って歩き出す。
 置いてかれないようにその後を追いながら、先程の言葉を考えた。
 家に辿りつくまでに答えは見つかるだろうか。
 いくら空を見上げても雨は止む様子はないのに、それでも松下がやろうと思えばできるんだろうなと当たり前のことを思った。

END



[2011/05/14]