(マガジン版)


「待てよ。悪魔くん」

 チャイムの音に混じって聞こえた声が、かろうじて鼓膜に届く。
 脳内を飛び回っていた数字と文字の羅列を片隅に置いて、山田は足を止めた。
 一度目を閉じて振り返ると、駆け寄って来るのは、見慣れたクラスメイトの姿。みずぼらしい服と梳かれていない短髪は、彼の名前の通り貧乏であることを匂わせるには十分だった。

「なにか用かい?」
「何かも何もないよ。最近は放課後になると、すぐ居なくなってしまうじゃないか」
「早く行かないと、本屋が閉まるんだ」
 答えである一言を告げる。
 このままでは立ち話になると判断して、山田は足を踏み出した。

「ちょっと、待ってくれ。本屋? どこの本屋だよ?」
 隣に並んで聞いてくる質問に、山田はどう説明しようかと考えた。
 数日前に同じ質問を情報屋に聞かれたである。あのカメラ小僧というか、雑誌記者のようなクラスメイトは、やたらと鼻が利くのだ。何をしているのか、ある程度の想像はついているに違いない。
 ただ、彼は確信に辿りつけるほどの運を持ち合わせていないのが幸いだった。

「場所を伝えるのは難しい場所なんだ」

 山田は情報屋の時と同じ答えを返す。
 嘘ではなかった。貧太は情報屋と違って、べらべらと他人に山田のことを言いふらす相手ではない。そういう意味では安心だった。
 しかし、今回ばかりは誰の力も借りたくなかった。

「もしかして、まだメフィストのことを諦めてないのか?」

 早足の山田に追いつこうとする貧太の声に、息切れが混じる。
「そんなところだよ」
 むしろ、その通りだった。
 鞄の中のチョコレートが、カタカタと音を立てる。
 ファウスト博士と出会い、悪魔メフィスト・フェレスを召喚して、かれこれ一年が経っていた。

 あの嵐のような刺激的な毎日について、山田は幾度反芻したかわからない。
 失った非日常がいかに素晴らしかったことか。
 当初は単純に世界を一つにするのが目的だった。あまりにも退屈で、差別的な日常生活を打開したくて仕方がなかった。

 今はどうなのだろう。
 考えるのも馬鹿らしい。何があろうとも先に進むだけだ。
 立ち止まりたくなんてなかった。

 此処はとても息苦しい。

 ずっとずっとそう思っていた。
 閉鎖された教室。教師のつまらない話。騒ぐクラスメイト。内容はいつだって似たようなもの。
 嘘をつくのは得意だ。表情を作るのは苦手だ。

 何かを伝えるなんてことはよけいに苦手だよ。

 言葉を選ばなければならない。脳内に浮かび上がる表現のいくつかを押さえなければ、普通ではないと気づかれてしまう。
「悪魔くん、あいつのことは諦めろよ。どのみち、ソロモンの笛さえなければ」
 そんな言葉は聞きたくない。
 窓枠に両掌を乗せる。キョトンとした貧太の眼鏡の向こうを見ながら、窓を越えた。

 冷たい風が頬を撫でる。上では悲鳴。眼下に雑草。過ぎていく景色。落ちる感覚。呼吸を一つ。

 両足に力を込めて着地。
「だ、大丈夫かい! 悪魔くん!」
 二階ぐらいならどうにかなるさ。
 言葉を飲み込んで、ひらひらと手を振って無事だけを示し、再び足を進める。
 引き止める声がしたが立ち止まる気はなかった。

 授業で使われたサッカーボールが運動場に転がっている。誰かの片づけ忘れだろう。
 風に揺られて転がって来たそれを思い切り蹴飛ばすと、ボールは校門の向かいある塀を飛び越えていった。
 歩いていた何人かの視線が向いたが、素知らぬ顔をしていれば誰も自分がやったのだと気づかないだろう。
 一度、目を閉じた。開いた後、視界が捉えるものとは別に脳内だけで繰り広げる。

 鞄に入った本の重みは、教科書のものではない。
 やたらと難しい言葉や暗号のような内容が刻まれた書物の内容を思い出す。

 消去法。確率。図形の組み合わせ。数字の羅列。
 古びた紙。日焼け。滲んだ文字。破れた部分。乱丁。

 近づいているという確信めいたものはあった。
 調べれば調べるほど迷路に迷わされていた半年前が嘘のようだ。

 届かないかもしれないと思っていた。あの時に諦めろと言われていれば、もしかしたらそうしていたのかもしれない。

 けれど、気づいたんだ。

 本にはいつも問題があるわけではない。滲んだインクは本の年代に比べて真新しかった。破れた部分は日焼けしていない。

 きっと僕を妨害しているんだろう。

 犯人が誰であるかは想像できている。
 もしかしたら、違う相手かもしれない。それでもよかった。


 路地を縫いながら、決められた通路をなぞる。
 足元いた黒猫が濁った声で、にゃあと鳴いた。
「やあ、景気はどう?」
 声をかけると猫は顔を背けて、山田が通って来た道を駆けて行った。

 置き去りにされた場所の匂い。太陽の光さえも届かない薄暗さ。

 鼠が一匹。穴から這い出て足元をすり抜けた。
「そっちは猫がいるから危ないんだけどな」
 鼠の言葉はわからないから、言ったところで一緒なのかもしれない。

 開けた道に出てくると夕陽の光で空の色が変わりはじめていた。
 左右を確認して道路を渡る。今にも崩れそうな民家に似た建物は、半分だけシャッターが下りている。子どもである山田にはしゃがむことなく、閉まった扉を開けることができた。
 スライド式のそれが、からからと音を立てる。

「失礼します」
 足を踏み入れてお辞儀を一つ。硫黄のような、腐敗した匂いが鼻につく。

 それでも外よりは呼吸が楽だった。

 図書館のように並ぶ棚の数は、全部で五つ。頭上の電球は割れていて、ぶら下がるのは爬虫類のはく製や昆虫の抜け殻ばかり。それでも明るさがないわけではない。
 入ってすぐの小さな机の上にあるランプ。炎がゆらゆら。

 鞄から持ってきた本を取り出して、右手に持つ。今度は断りもせずに、ランプは左手へ。
 三番目の棚に移動して、本を戻す。それから、ランプ片手に移動開始。

 一番目の本棚に立って、上から順に光をあてていく。
「また本の並び方を変えたんですね」
 顔も向けずに言えば、奥からくぐもった笑い声がした。 貧太には本屋と表現したが、山田にもここが何か表現することができなかったのだ。

 魔術の本を探すために古本屋を渡り歩いていた山田がこの場所を見つけたのは、つい最近のことだ。
 近くにある場所はほとんど回りつくしていて、この場所だけはずっとシャッターが下りていた。それが半分だけ上がっているのに気づき、中を覗いてみればランプの光で本が並んでいるのが見えたのである。
 迷わず足を踏み入れると、店主が背後に現れてこう言った。

「好きな物を持っていけばいい。その代わり、読み終わったら返しにくるのだ。いいかね?」

 ランプを向けようとすると手を押さえられたので、山田はこの店主の顔を知らない。
 ただ、声から察するに高齢であることと男性であることは確かなように思う。
 それにファウストを思い出した。

「エロイムエッサイム」
「エロイムエッサイム」

 つぶやく声に、向こうから声が返って来る。

「われはもとめ」
「うったえたり」

 響く笑い声。
 この呪文を店主は最初から知っているようだった。
 つぶやく度に続きが返って来る。
 それがどこか嬉しくて、来る度に繰り返していた。

「求めるものは見つかったかね?」
「もう少しで届きそうですが、いつも本の配置が変わるので困っているところです」
 相変わらず、タイトルも種別もバラバラに並べられている。だからこそ、隅々まで見なくてはいけないのだ。
 それでも時間は有限である。帰りが遅くなりすぎると、両親がうるさいのだ。
「すべてが思い通り運ぶような世の中をお望みかね?」
「謎解きは嫌いではないですが、あいにく僕には時間が無いので」

 二番目の棚に移動する。再び、ランプを上に向けた。
 背表紙を指でなぞる。

「生き急いでいる、ということかな?」
「いいえ。窒息したくないだけですよ」
「ここに酸素はないと思うがね」
「けれども酸素の作り方は存在するので、僕はそのレシピを探しているんです」
「それが毒であっても?」

「僕自身が毒でしょう?」

 空間が揺らいだ気がした。
 背後に気配を感じて、山田は勢いよく振り返る。
 だが、それを確認する前にランプの中の炎がかき消えた。
 最後に捉えたのは深い闇。


「兄ちゃん、兄ちゃんってば」
 揺すぶられて、目を開けた。
 ぼんやりした頭で瞬きすると見慣れた光景。自分の家だと理解するのに、少し時間が掛った。
 どうやら寝ていたらしい。

「どうして、玄関で寝てるの?」

 目の前に立つ妹が不思議そうに言って、首を傾げる。
 どうしてだったろうかと記憶を探って、山田は身体を持ち上げた。
 慌てて横にあった鞄を確認する。

 入っていたはずのチョコレートが無くなっていた。

「兄ちゃん? どうしたの?」
「なんでもないよ」

 上手く笑えやしないから、誰にもこの感情は伝わらない。けれども、それでいい。
 誰かに理由を聞かれて答えところで、またおかしなことをと言われるに違いないのだ。

 やっぱり、ずっと近くに居たんだな。

 それなら、と諦める気など一切なかった。
 相変わらず、不思議そうな道子に山田は首を傾げてみせる。
「ところで、今日の夕飯は何だい?」
 ポンと手を叩いた妹が食事の内容を口にするのを見ながら、山田は息を止めた。

 今度は僕がお前の帽子を奪ってやるよ。

 つぶやいた言葉はどこにも行かないまま、胸の中に沈んでいった。

END

[2011/01/05]