(千年王国版)

 自由というのは解放だと佐藤は思う。
 自分が社長になれるとは、夢にも思っていなかった。すべては松下に関わったからこその出来事だ。そういう意味では、彼との日々は代償としては正しかったのかもしれない。
 最初の頃は、松下を殺すきっかけを作ってしまった罪悪感があった。しかし、その存在が失われた日々が過ぎるごとに、記憶から薄れていった。

 世界はこんなにも美しい。

 金の尽きない生活。やりがいのある仕事。命令される側ではなく、命令する側の地位。
 柔らかな椅子に腰かけながら、運ばれてきた書類に目を通す。
 ふっと紙面に影ができた。
 ノックもせずに入って来るとは、失礼なやつだ。
 そう思いながら顔をあげようとした佐藤は、息が止まるかと思った。

 書類の両端に小さな靴。そこから伸びる細く青白い子どもの足。
 まるで、そうまるで、死人のような。

「過去というのは、忘れた頃に浮かびあがってくるもんだぜ」

 頭上から降って来た声に、薄れた記憶が色づく。
 その肢体が落ちる様と叩きつけられた体躯から流れる血の色が瞼に蘇る。
 世界が色を変える。黒と灰色に浸食されていく。

 顔を上げなければと思うのに、指先が震えるのがわかった。
 疑問が回る。
 なぜ、どうして。

 松下一郎は死んだ。目の前で佐藤は確認している。しかし、死体は何者かに持ち去られたのか消え去っていた。
 けれど死人は死人でしかない。ただ、それは人間であるという前提の話だ。
 生前から松下という人物は、人間離れしていたではないか。この子どもこそが悪魔だと思ったではないか。

 生き返って目の前にいるとしてもおかしくはない。

 喉が詰まるのはつむじに感じる視線のせいだ。
 見下げられている。

「忘れてもらっちゃあ困るんだ。一人だけ幸せものになるなんて、おこがましいとは思わないか? 僕はお前を殺し損ねたが、お前は僕を殺したのだ」

 責めるような言葉ではあったが、口調はどこか楽しげだった。
 誰か呼ばなければと備え付けの電話に手を伸ばすと、いとも容易く踏みつけられた。
「関係者以外立ち入り禁止。あるいは行き止まり」
 ぐりぐりと爪先を押し付けられる。徐々に乱れる呼吸を整える方法を佐藤は知らない。
「顔をあげろよ。笑ってみせろ。そうでないと困るんだ。僕の死体を越えて積み上げたお前の幸せというやつが、僕の存在で壊されるというのはおかしいよなあ?」
 吹き出す汗が滴に変わって、書類に染み込む。黒い点が一つ。
 空間が足元から歪んでいく。闇に飲み込まれるのだと思った。

「助けて……ください」

 絞り出した声が驚くほど掠れていた。
 ただの命乞いがどうしようもなく不様で、受け入れがたいことを知っていた。
 松下の言葉は間違っていない。復讐されるのがおかしいというのなら、佐藤のしたこともまたおかしいのだ。
 殺されかけたことのある佐藤には、殺されるという恐怖がわかる。あの乗っ取られるような自我を失っていく感覚が松下にあったとしたら、それなら佐藤を殺しにくるのも納得できた。
 だが、死にたくはなかった。結局は自分が大事なのだ。当然の話だ。

 貴方だってそうだったんでしょう! 山田氏を殺して、利用して、あげくの果てには私のことだって同じようにしようとしたではありませんか!

 心の中だけで叫んだ。それを口にしようものなら即死だろう。奥歯を鳴らしながら口を閉じた。

「……お前は卑怯者だ」

 ぽつりと漏れた声とともに、視界から松下の足が消える。
 顔を上げれば、蜂を思わせる服が空を舞う。ふわりという形容が似合いそうな速度で、佐藤の記憶と変わらないままの彼がカーペットに着地した。
 靴跡のついた手で受話器を取る気は起きなかった。

 佐藤を見上げる彼の瞳は、垂れ目がちのままでもどこか色彩を欠いていて、先程感じていた気配が嘘のように弱く映る。
 その小さな手が心臓の辺りを握り締めるのを見た。
 彼の足元から黒い影。生き物のようにうねりながら広がっていく。

「僕は――」

 皺のついた服と指の隙間に、赤が染み出す。
 俯いた顔は、風もないのに揺らぐ髪の下で見えない。
「……メシヤ?」
 目の前にいるのは誰なのか、わからなくなってしまいそうだった。
 彼は、悪魔なはずだ。人間の子どもとは思えない頭脳は、本物の悪魔より恐ろしい。ただ、子どもの姿をしているだけというだけの話ではなかったのだろうか。
 笛のような音を鳴らして、松下が息を吸う。

「痛いんだよ」

 泣いているような声に思わず手を伸ばす。
 届くわけがないと知っていた。距離も全部。それでも衝動的に腕が動いた。
 影が指先に触れて飲み込まれる。一瞬だけ見えた松下の瞳に――。

 悲しみが揺れた。



 跳ねるように起きた佐藤は、上手く働かない思考でさっきまでのは夢だと理解した。
 呼吸は乱れたままだ。髪から伝い落ちた汗がシーツに縁を描く。
 身体を折って押さえつけた心臓は、指先に伝わるほど脈打っていた。

「大丈夫か?」

 聞こえた声は夢の中と同じ相手のものだった。
 ぱたりと聞こえた物音は、それまで彼が持っていたであろう本が閉じられた音だろう。
 どうして、横に座っているのかわからなかった。
 それでも、今、もっとも会わなければと思った相手である。
 何か言わなければと吸った息は、心臓に手一杯とばかりに声を発することを許してくれない。

「佐藤」

 肝心な時だけ名前で呼んでくれる声に、目の裏が痛んだ。
 全部夢だ。いつかの現実に似た夢だ。
 松下はあんな風に佐藤を責めたりもしないし、あんな風に泣きそうな声を出したりなどしない。
 けれどもそうであったかもしれないと思ってしまった。
 言葉を使命のために費やす少年は、自分自身のためになる言葉を飲み込んでいるだけかもしれない。
 そうして、いつかみたいに勘違いしてしまいそうな恐怖。
 彼は人間だ。仙人の力で蘇ったが、銃弾で死ぬような人間だ。
「おい。佐藤」
 次の声はやたらと近くに聞こえた。僅かに軋んだベッドで、松下が膝を乗せたのだと気づく。
 右手を伸ばし、その身体に触れる前に強く握りしめて、シーツの上に戻した。

「抱きしめても、よろしいですか?」

 詰まりながらもそれだけを口にした。
「……なんだ、いきなり。気持ち悪いな」
 その通りだと思う。急にこんなことを聞くのはおかしい。
 けれども触れたいのだ。どうしようもなく。
 ふいに肩を掴まれた。覗きこんできた松下の目が驚きに染まる。
 多分、今の自分はまともに人に会えるような顔なんてしていないのだと、佐藤は頭の片隅で思った。
「真っ青だな。苦しいのか?」
 見上げる視線はいつもと変わらないようでいて、顰める眉の角度がいつもと違っているように見えた。
 瞼を閉じてしまわないと零れてしまいそうだった。どうにか、笑みらしきものを浮かべる。

「少し」

 嘘だとわかるような声でも本音は言えそうにない。
 格好が悪いというよりも今なら、彼に心配をかけるであろうことはわかっているのだ。
「そうか」
 小さく言った松下の声と一緒に気配が動いた。

「いいぞ」

 それが自らの質問の答えだと理解して目を開けると、正面に向き合う形で松下が座っていた。
 見つめる瞳はどこまでも静かで、それでも生命力に満ちた強さがあったから、肩の力が抜けるような気がした。
 引きこまれるように伸ばした手で、その小さな身体に触れる。引き寄せるのは容易いほど軽い。指先に通したその髪は、やたらと柔らかかった。抱きしめることができたとわかった途端に、堰き止めていた涙が溢れる。
 鼻先珈琲のの匂いが、苦くて、甘い。
 違う温度に、僅かに届く鼓動に、嗚咽ばかりが加速していく。
「何があったか知らないが、謝るなよ」
 先読みされたかのような声が、鼓膜を揺すった。
 埋めた顔で二度ほど頷く。
 けれど、それ以外の何を言うべきかわからなかった。

 この痛みの殆どは罪悪感だ。
 自分の無力さと愚かさは救いようがないものだと、つくづく思う。
 それでも隣に置いてくれるのは、許されているからなのだ。
 こうして触れることすら構わないと言う彼に、自分は何ができたというのだろうか。

 回る思考に合わせて、掻き回された心が混ざって濁る。

「どうせなら笑えよ」
「顔を、あげて、ですか」
 指に力を込めながら、ふと夢での松下の言葉を思い出した。
「そうだな。俯いても気が滅入るだけだ」
 ふぅとため息が一つ。
「誰もお前を責めたりはしない……違うな。そんなことは僕がさせない」
 呼吸を整えながら、その心地よい音に目を伏せる。
 力強いのはその心臓だけではないのだと思った。

「悲しむのはやめろ。僕はそれを見たくないから、救世主でいるんだ」

 夢物語のような理想。それを目指す心は、限りなく白いのだろう。
 世界が貴方のような人だけなら、それは夢ではなかったはずなのに。
 自らの心はきっと黒に近い。こんなに近くに居てもそうなのだ。

 私はいずれ貴方の邪魔者は排除しようと思うようになるでしょう。
 白だけが残れば、きっと自分のように彼を裏切ろうと思う人間は居なくなる。
 代わりに汚れることぐらいならできると思った。あるいは。

「私が幸せなら、メシヤも幸せになれますか?」
「家ダニが自惚れたこと言うなよ」
 全くもってその通りだ。
 自嘲しながら手を離そうとすると、それより先に伸びた松下の手に腕を握られた。

「ただ……お前が居ると僕は人間なんだと思える」

 傍には蛙。肩には梟。その手に占いの杖。
 松下の信頼しているのは異形だけだ。その中で生きていることに、彼は何も感じていないと思っていた。
 もしかしたら、それも佐藤の勘違いなのかもしれない。
「悪魔でも構わないがな」
 ゆっくりと指の力を緩めながら言うと、松下は手を離した。

「僕は万人の幸せを見るまで、幸せにはなれない」

 それはとても不幸なことであると、彼は知らないのだろう。
 無謀で、途方にも無い、理想郷。
 否定を飲み込みながら、その声を聞く。
「それなら、私などちっぽけですね」
 泣きすぎせいかかもしれない。佐藤はぼんやりとした頭でつぶやく。
「とんだ過小評価だな」
 鼻で笑われて顔を上げる。
 眉を寄せたままの松下は、口角を歪めた。

「それなら、この程度で痛む僕はただの馬鹿だな」

 何か大事なものが松下の瞳に見えた気がしたが、それを理解する前に目元を押さえられ、気づけばベッドの上に倒されていた。
「とっとと寝ろ。その夢が幸せであることを願っていてやる」
「まるで、私だけのためみたいですね」
 それはとてつもなく馬鹿な話で、胸をしめつけられながらも甘美な響きがする。
「そんなこともわからないから、お前は家ダニなんだよ」
 呆れたような声がそれでも柔らかいような気がして、大人しく目を閉じた。

「お前のせいで眠れないから言ってるんだ」

 遠くに聞こえたそれが夢か現実か、佐藤にはわからなかった。


END


[2010/12/17]