(千年王国版)

 魔術書を読んでいると、前ぶれなく蛙男が机の上を片付け始めたので、松下は顔あげた。
「何かあったのか?」
 相手が佐藤ならしかめっ面でうるせぇなとでも言うところだが、蛙男には優しいというのも松下一郎の特徴でもあった。
「まあまあ」
 そう言って、ただでさえ緩い口元をさらに歪ませる第一使徒に、松下は僅かばかり首を傾げた。

「まあまあじゃないだろ。珍しい。何かいい事でもあったのか?」

 千年王国の類なら走って来て、松下に真っ先に伝えるのが蛙男だ。
 それを考えると個人的な事で機嫌がいいと思われる。
 口には出さないが、蛙男が何か喜んでいるのを見るのは悪くないと松下としては思っていた。
 いつも主従関係が一方的に成立してしまっていて、少しは自分の幸せぐらい考えろと言いたい気持ちもあったりするのだが、口には出さずにいた。
 恐らく、それは蛙男にとっては自己否定に違いないであろうことはわかっている。自らの使命に対して忠実である彼は、本当にそれ以外はいらないと言いたげなのだ。

 あるいは、僕から離れる可能性が怖いのかもしれないな。

 そう思って、らしくないなとため息をついた。
 現状が全く進展しないのが原因なのはわかっている。やればやるほど空回りするのが数日ほど続いていて、焦っても何もならないかと部屋に籠って早二日が過ぎていた。
「いい事? いい事かどうかは、これから判断しようかと思っているところです」
「やけに勿体ぶった言い方をするな」
 いくつかの本は棚に移し、いくつかは残す。佐藤がやるとよくない結果になるが、蛙男がやるとそうはならない。
 単純にわかっているのだろうと思う。松下のすることを察するのは、蛙男の方が佐藤より優秀だ。
 笑みは押さえないままに蛙男が片づけ終えると、松下の前にA3サイズほどのスペースが広がった。
 ますます疑問を浮かべる松下の横を通り過ぎて、蛙男が部屋のドアから向こう側に顔を出す。

「佐藤! こっちはできたぞ!」

 滑り込んだ名詞に、思わず目を見張ってしまった。
 なんだか嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
「てっきり、蛙男さんならふざけるなとか言うと思ってましたよ」
「言うわけないだろ。お前の思いは十分伝わった。ようやく、使徒の自覚が!」
「すみません。涙目になってますけど、思い切り勘違いですからね」
 ドア越しに二人の会話が耳に入って来るが、それがよけいに嫌な予感を確信に近づける。
 読んでいた本を閉じて、重なった本の上に乗せた。
 逃げたいところだが、出入り口を二人の大人に塞がれている。
 一瞬だけ飛び降りることを検討したが、却下した。その数分後に、蛙男が飛び降りるのが想像できたからだ。

 失礼しますと挨拶をして入って来た佐藤の手には、見覚えのある物体が乗っていた。

「オムライス?」

 四角いお膳に乗せられた皿の上、そこに乗せられた黄色い物体の名前をつぶやいて、次の瞬間、重大な事実に気づいた松下は眉をよせる。
「おい。なんだこれは」
「オムライスだと、自分で仰ったではないですか」
 視線の強さに一瞬腰がひけた様子の佐藤ではあったが、後ろから蛙男に背中を叩かれる形で前に踏み出す。
「おい」
「いや、ですから、睨まれても」
 お膳を置いて佐藤が一歩下がる。
 今度はそれを放った蛙男が、いつも定位置である松下の隣に並んだ。
「佐藤の手作りらしいですよ」
「蛙男」
 思わず声が低くなったが、蛙男は困ったように眉を下げるだけだった。
「ですから、その呼び方はやめてください」
 そういえば、そんなことも言われた覚えがあったと思い出す。
「わかった。第一使徒」
「はい。なんでしょう」
 言いかえると嬉々とした表情になる蛙男を前に、松下は改めて目の前のお膳を指差した。
「なんだ、これは」

「佐藤が腕によりをかけて作ったオムライスです。ポイントはこのでかでかとケチャップで書かれた『メシア』の文字ですね! 見てください! ひらがなですよ! 片仮名のような刺々しさではなく、ひらがな特有の柔らかさを追求した結果だと思いませんか! 隣には栄養バランスに配慮すべく、葉野菜とトマトが添えられてます! これは佐藤もようやく使徒として目覚めたのだと思われますが、いかがですか!」

 眼鏡の奥の瞳を眩しく輝かせながら、待ってましたとマシンガントークをする蛙男を前に松下は肩を竦め、佐藤は頭を抱えた。
 お膳の上にあるオムライスについては、蛙男の言う通りである。松下にとって、何が一番問題かというとそのケチャップで書かれたらしき文字の方だった。
 まるで、普通の子どもに親が名前を書いてあげるような感覚でされているのだから、全く理解できなかった。特に、これを作ったのが佐藤というのだから、尚更。

「だから、それは違うんですよ」

「だから、なんだと聞いているんだよ」
佐藤にどうしようもない感情を向ければ、彼は再び一歩下がった。
「そう怒らずともよいではないですか」
 一人だけやたらと嬉しそうな顔をした蛙男に、銀色のスプーンを手渡される。
「どうしてそんなに嬉しそうなんだ」
 呆れるというよりも不思議でしかない。この状況に置いて、蛙男は位置的には遠いはずだ。
 いい事かどうかは後でわかると言っていたのを思い出すに、悪い事に転がっているような気がしてならない。
 そもそも、こんなわけのわからないものを渡されて喜ぶと思っているのだろうかと、松下は問いかけたかった。

 素直にスプーンを手に取りながら、改めて目の前の物体を観察した。
 焦げ一つない黄色の卵からはユラユラと白い湯気が漂っていて、鼻腔を撫でるようなケチャップの香りは久々な気がした。
 なんとなく懐かしい気がして、そういえば母親に作ってもらった覚えがあったというのが頭を掠める。
 込み上げてきた感傷を無理矢理押さえつけて顔をあげると、佐藤がすぐ前まで来ていた。

「ご迷惑でしたか?」

 しょんぼりという顔をする佐藤に、よけいに眉間の皺が増える。
 迷惑とは違うのだとは口にできなかった。それを言うと、色々な言葉が出てきそうで怖い。

 違う。何が。どれが違う。

 言わなければならない言葉を蹴り飛ばしながら、どうにか無難なものを探す。
 しかし、きっとどれを言っても弱さが滲みそうな恐怖があった。
 スプーンを握り締めながら佐藤を睨みつけて、松下はいい言葉を選んでいた。

「いらないのでしたら、代わりに食べていいですか?」

 ふいに飛び込んだ声に、佐藤と同時に声の主である蛙男を見た。
「いや、蛙男さんのためには作ってませんからね」
「当たり前だろ! おれために作ったとか言ったら、鳥肌が立つ!」
「……蛙のくせに鳥肌とか」
「なんか言ったか?」
「いえ、何も。何も言ってませんよ。蛙男さん」
 明らかな営業スマイルで佐藤が言う。

「いいのか? 佐藤が作ったものだぞ?」

 佐藤はこの際無視して、蛙男に疑問を投げかけた。
「いや、食べられれば問題ないでしょう?」
 確かにその通りだ。
「毒が混入されているかもしれないぞ?」
「なんでそうなるんですか!」

「そんなことができる奴だとは思えませんよ」

「ちょっと、それも聞き捨てならないんですが」
「なんだ、その反応は? まさか入れやがったのか!」
 ぼそりとつっこんできた佐藤の言葉に、蛙男が身体を向ける。どこか魔術を唱えそうな構えに、佐藤が目を見開いて首を振った。
「どうしてそうなるんですか! というか、目が本気すぎですよ!」
 その慌てように納得したのか、蛙男は何事もなかったように松下に視線を向ける。
「ほら、あいつもそう言っていることですし」
 蛙男の言うことはもっともだ。否定する理由などどこにもない。
 それでも、そうだと肯定する言葉を出すのをためらってしまう。

「メシア?」

 佐藤の声に顔上げる。
 手を伸ばせば届く位置で、どこか心配そうに見つめる二つの目を睨みつけた。
「な、何か睨まれるようなことしましたか?」
「まあ、いいじゃないか。佐藤はそれぐらいがいいだろう」
「何ですか、それぐらいって!」
「メシア、あんまりにも握り締めているので形が変わってますよ」
 佐藤の発言を流した蛙男は、こっそりと耳打ちをするような小声で口にした。松下はその意味に気づいて、手元に視線を向ける。
「えっ?」
 声を上げたのは佐藤の方だ。見事に首を曲げたスプーンを手にしながら、視線を合わせないように松下は顔を背ける。

「違うからな」

「何がですか?」
「黙れ、家ダニ! 邪魔なんだよ!」
「だから、何かしま」
 ネクタイを蛙男が軽くクィと引いて、佐藤の言葉が止まる。
「それでは少しばかり場を離れます。何かありましたらお呼びください」
「お前、にやにやしすぎだぞ」
 リードを引く飼い主のような蛙男に対して思わず口にすると、どこか楽しげな視線を向けられた。

「少し前のメシアの方が嬉しそうに見えましたよ。行くぞ、佐藤」

「行くぞじゃ、ちょ、くるし、んです、って」
 ずるずると引きずられる形の二人を見送って、椅子から飛び降りる。
 ドアの向こうで会話する二人を覗き見れば、何を言ったのか佐藤が蛙男に殴られていた。
 無視して椅子に座り直す。
 少しばかり冷めたようではあったが、手をかざすとまだオムライスは温かそうだった。

「弱っちゃうなァ」

 食べ物を残すのはよくないと勝手に理由づけて、曲がったスプーンを黄色の端に差し込んだ。
 ケチャップを避けて、中のご飯ごと掬いあげると口に放る。

 素直に美味しいと思ったことは、直接言えそうもないので小さくつぶやいた。


END


[2010/12/16]