ドッペルゲンガー(独: Doppelganger 自己像幻視)は、「生きている人間の霊的な生き写し」を意味する。
 ドッペルケンガーと発音する場合もまれにある。単純な和訳では「二重の歩く者」となる。引用→Wikipedia


『千年松下が貸本松下に会う編』

 ヤモリビトが声をかけてきた時、松下はほんの僅かばかり驚いた。けれども近くにいる父親も何も言わないし、ヤモリビトも気づいていないようだ。

 ヤモリビトの足元に知らない少年が居た。いや、知らないというのは正確に言うのなら嘘かもしれない。でも嘘のような相手だった。
 額がほとんど見えるほどに前髪が短い少年は垂れ目気味だが、その奥に見た目の体躯に似合わないほどの憂いと落ちつきを持っている。

 ああ。こいつはきっと僕だ。

 薄い影のようなその姿を横目に、ヤモリビトの話に応対しながら考える。
 同じ世界に自分が二人居るわけがない。荒唐無稽なことではあるが、どうやら自分にしか見えてないのだから納得してしまった。
 頭上のヤモリビトを凝視しながら、もう一人の自分が口を結んでいる。握られた手には力が込められているように見えた。
 ヤモリビトが箒工場まで来て欲しいと言う。父親が外は危ないと声をかける。
 それらに答えながら、外に出るなり消えてしまったもう一人の自分について考えた。

 あれがドッペルゲンガーであるとしたら、僕はもうすぐ死ぬんだろう。

 隣にいるのはヤモリビト。中身が佐藤であることは、ずっと前から知っていた。
 裏切るのはきっと彼だろう。
 そんなことも何となくわかっていた。
 ならば、早くしないと。

 死ぬのは怖くない。ただ、せめて千年王国が完成してからにして欲しいと、松下は眉を寄せた。



『貸本佐藤が千年佐藤さんと会う編』

 松下にばれないように馬小屋を抜け出した佐藤は、警察に連絡するべく公衆電話を探している途中だった。
 ふと視線を感じて振り返れば、人混みの中に自分と同じ服装をした男が目に入る。
 石段に腰かけ樹木を背にしたその男は、膝の上で両手を組んでいた。佐藤を見つめる視線は間違いなく睨んでいるようである。
 佐藤よりは迫力や自信にかけた雰囲気ではあったが、この距離からでもヤモリビトの皮の下にある自分の顔に似ているような気がする。

 こんな美形が他にいてたまるものか。

 そんなことを思うと何者なのか気になってしまう。
 どこか周りより浮いてみえるその男には近づかない方がいいと頭の奥で警鐘が鳴っていたが、確認したい気持ちに佐藤は負けた。
 何しろ、この世で一番怖いのは松下であると知っている。それに比べたら、大したことがない相手だろう。
 その男は佐藤に比べてくたびれたスーツではあったが、水玉のネクタイの柄も一緒だった。下手な仮装のようだと思いながら、足を進める。
 男の視線は動かない。
 近づいてからどう声をかけたものかと思いはしたが、それよりも早く男が動いた。
 先程まで組んでいた手を解き、佐藤に差し出すかのように両掌を見せる。

「なっ!」

 男の両手は真っ赤に濡れていた。すぐに血だと想像したのは、さっきまで松下を殺すことを考えていたかもしれない。
 後ずさりして逃げようとした。この男は危ない。
 男の視線の鋭さが徐々に増して行くのが、肌でわかる。
 見れば、その男の足元には影がなかった。
 踵を返して走り出そうとしたが、佐藤の足は止まってしまう。
 いつの間にか、そいつは目の前に立っていた。

 こいつは、私だ。

 直感でそう思った。理性はそんな馬鹿なことがと否定し続けているが、本能がそうであると告げている。
 真っ赤な手から落ちた血は、地面にぽたりぽたりと滴って円を描いていた。 
 息を飲んだ。喉が鳴る。全身から汗が吹き出すのを感じながら、じっと同じ目線の高さの男を見た。
 その唇が言葉を刻む。声はなかった。

 一言だけだった。

 立っていられなくなった佐藤が尻餅をつくと、男はもう居なくなっていた。
 人々は何事もなかったように動き、地面に滴ったはずの血はない。
「ははは、まさか」

 幻だ。私は疲れているのだ。

 松下に出会ってからのことを思い出しながら、佐藤は口にする。そんなものがただの強がりであることもわかっていた。
 確かに現実だったと知っていながら、認めたくなかった。
「そんなこと私は思ってなどいない」
 自らを奮い立たせるように言い放って佐藤は立ち上がると、早くしなければと走り出した。
 男は言った。

『あの人を裏切るな。後悔したくなければ』

 誰のことであるのかすぐにわかった。
「後悔なんてするわけがない」
 奴は自分の人生を奪った悪魔なのだから。

END

[2010/12/14]