引っ越ししてきた住人が挨拶したのは、一週間ほど前の出来事だと松下一郎は記憶している。

 今は殆どレトロなものとなったブラウン管テレビを片手に、引越しの挨拶だと持ってきたのは先日通販で紹介していたスイカだった。
 それを差し出す少年は暑さのせいか、少し青い顔をしていたのを覚えている。

 扉を開けた同居人の佐藤もそれに気づいたらしい。立ち話もなんだからと、その少年を招きいれた。
 冷蔵庫の冷たい水をコップに入れてやると、彼は本当においしそうにそれを口にして、頭を下げる。それから、何気ない世間話を佐藤が持ちかけて、それに受け答える少年の言葉数は少なかった。

 どこか居心地が悪そうだなと眺めていたら、ふいに声をかけられたのである。

「君、あそこの小学校に通っているのかい?」
 そう言って、松下がもたれていたベランダから見える小学校を指差した。
「そうだな」
「引っ越してきたということは、山田くんもこちらから通うんですか?」
 佐藤が飲み干されたカップに水を追加する。
 グラスの中で涼しげな音を鳴らした氷を見ながら、『山田』という名字を持つ友人の顔が松下の頭をよぎった。

 このアパートには子どもが多いなと思いながら、一人で引っ越しの挨拶をしにきた山田を見て、きっとこいつも訳ありなのだろうと思う。
「通えたらいいなと思ってるんだがね」
 そうつぶやいて、彼は大きな瞳を細めた。


 あれから一週間。転校生が来たという話は聞かなかった。
 それにくわえて、彼の引っ越してきた隣の部屋は異常なまでに静かだった。
 読んでいた本を閉じる。佐藤は仕事に出掛けておらず、もう一人の同居人、正確にはこのアパートの世帯主は用事で出掛けているところだった。
 扇風機が軋んでいるのを聞きながら立ち上がる。片耳で聞いていたテレビがアナログテレビの歴史を放送していた。

 この一帯は休日になると静かになる。いつもはうるさい上の住人も寝ているのだろう。昨日は深夜まで騒いでいたようだった。
 戸締りはせずに部屋から出る。熱気に満たされた廊下に差しこむ日差しに顔をしかめて、表札のない部屋の前に立った。

 チャイムを押そうとしたが、ノックすることにした。電気メーターには動いた形跡があるが、こんな夏日だというのに回転している数字が少ない。
 大家の顔を思い浮かべるが、個人的にあまり好きな顔ではない。訪ねに行くのは却下した。

 部屋に戻って冷蔵庫から水のペットボトルを取り出す。そのまま、ベランダまで移動した。
 途中でカウントダウンをしているテレビが目に入った。大晦日じゃあるまいしと思えば、今日はデジタル放送に切り替わる日だったなと思い出す。
 山田の持っていたあのブラウン管テレビは、もう何も映さなくなるのだろうか。

 ベランダの柵に足をかける。向こう側はジャンプすれば越えられる距離だ。
 曲げた膝に力を入れて飛び越える。カーテンの閉じられた窓を前に、眉を潜めた。
 クーラーもついてなさそうな部屋で、扉も窓も閉めるというのは普通ではない。

 窓に手をかける。鍵はかかってなかった。外よりも熱い熱気を受けながら、足を踏み入れる。
 想像したより異常な光景だった。

 冗談でも大袈裟な表現でもなく、この部屋には何もなかった。あるのは、ぽつんと置かれたブラウン管テレビだけだ。
 そのテレビも今は風景もない青を背景にしたデジタル放送に関する問い合わせについての画面が映し出されていて、そこに手が生えていた。正確には、山田の身体は半分以上テレビの向こう側で、手だけがこちら側に垂れている状態だった。

 佐藤が怖い怖いと言いながら借りて来た女幽霊のビデオのようだ。
 この光景も怖いと彼なら言うだろうかと思いながら、その手を握る。汗ばんだそれは異様に熱く、それでも松下が触れることで反応があった。

 死んではいないなと安心して、そのまま手前に引っ張る。山田はフローリングに叩きつけられるように落ちた。

「……いたい」

 ぽつりとつぶやいた声には緊迫感も衝撃もないようで、ただ漏れたというのが正しそうである。
「聞きたいことは山ほどあるが、水は飲めそうか?」
 しゃがみこんで問えば頷いた山田が起き上がるが、すぐによろめいてしまう。
「無理はするな」
 反射的に受け止めた身体はそれなりの重さを持っていて、やたらと熱を持っているのにも関わらず山田自身は、どこまでも静かだ。

「時代は流れるのだから、別れは避けられないものだね」

 全く覇気がない声のつぶやき。
 それがテレビを見ている時の山田真吾を彷彿とさせた。
「最終的には、自分自身とも別れなければならないからな」
 答えながら、その重さに倒れ込みそうなのを堪える。

「心中も悪くないと思ったのだけど、失敗してしまったというわけだ」
「邪魔をされたくなかったなら、なぜ窓を開けていたんだ」
 ホホホと小さな笑い声。

「止めてもらいたかったから、手だけはここに出してたんじゃないのか?」

「そうかもしれないね」
 蒸し暑さに眩暈がするなと思いながら、無理に山田をどかそうとも思えなかった。

「松下くんは優しい子どもだ」

 耳元でうわ言のようにつぶやかれた言葉には否定を唱えたかったが、そうしてはいけない気がした。少なくとも今は。
「……スイカも美味かったが、僕は珈琲の方が好きだ」
「それなら、次はそれを持って行くことにするよ」
 厄介な住人が増えたなと思いながら、寄りかかる命の重さを感じながら瞳を閉じた。


END


[2011/10/27]