ハナビラの向こう側に見る世界


 『春眠暁を覚えず』とはよくいったもので、都心から離れた場所にある桜の下で一人花見を楽しんでいたら寝入ってしまっていたらしかった。
 酒には慣れているのだが今回は遠出から帰って来たばかりだった。電車に揺られていた時間を思えば疲れていてもおかしくはない。
 手の平で瞼を擦りながら、あくびを一つ。

「大丈夫か?」

 知らない顔が目の前にあった。
 危機感よりも疑問がよぎったのは、相手が大人ではなかったからだ。ニュースを見ると物騒なことが多い。大人にどうにかされるよりも凭れかかっているテレビが心配だった。

 見たところ自分よりは年下の少年のようだ。血色が少し悪そうな顔。ボーダー服とは珍しい。半ズボンから覗く足も含めて、全体的に色白である。
 何よりその垂れ目が独特で、纏う空気はどこか重かった。
 何度も転校を繰り返したゆえに忘れているというには、印象深い少年である。

「どこかで会ったことあるかい?」

 会ってなくても見たことがあって声をかけたのかもしれない。
 テレビ生物と出会ってアナログテレビに入るようになって長い。一部の番組は全国放送だ。子どもに声をかけられるとテレビくんであるかどうかの確認であることが大半である。

 大人はその類を気味悪がるか信用してないことがほとんどだ。声をかけてくるのはオカルト好きや雑誌記者などであるから厄介である。

「いや。何ともないならいいんだ。起こしてしまったなら悪かったな」
 そう言われて自らの姿を見直す。
 アナログテレビに凭れかかって桜の木の下で寝る小学生。隣に転がる酒瓶。異様である。死んでいるのだと思われたかもしれない。
 考えたら自分もボーダー服だということに気づいた。用が済んだとばかりに立ち去ろうとしたその背に声をかける。

「何か欲しいものはあるかね?」

 振り返った彼が不可解なものを見るような顔をした。
 質問が唐突すぎたかもしれない。どうも会話は苦手だ。
 しばらく立ち止まったまま、少年は視線を向けている。どうやら思案してくれているようだ。

 咄嗟に出てこないということは、ある程度は満たされている子どもなのかもしれない。
 それなら自分は必要ないかと話を終わらせようとしたところで、彼は口を開いた。

「僕が欲しいのは物じゃない」

「では、心かね?」
 物ではないのなら、次に導き出される答えはそれだ。
 金がないから物というなら、金があっても手に入らないという模範解答はそれだ。
 この場合、金で心が動くかという議論は放棄しておく。単純な二元論だ。
「それもある。もっと広い意味だけどな」
「ほう」
 凭れていたテレビから身体を離した。
 続きを言うのを迷ったのか、彼は口を閉じる。少しの間をおいて息を吸ったと思うと、答えをくれた。

「僕の望みは千年王国だ」

 最初に思い浮かんだのは聖書だ。
 ようやく、目の前の少年が今まで出会った子どもとは違うことに気づく。
 どうりで落ち着いているのだと納得すると同時に、彼に同じ匂いを感じたからこそ声をかけてしまったかもしれないと後付けのように思った。



 頬に何かが触れて、瞼を持ち上げる。
 眼下に落ちた桃色の絨毯と空になった酒瓶に、どうしてこの場に来ると寝てしまうのかと不思議に思った。

 だが、いつかと違って、テレビを挟んだ向こう側に白い足が見える。
 知っている靴は前に見た時よりもすり減っていた。ゆっくりと顔をあげる。予測通りの人物が桜の木を見上げていた。
 緩やかに舞う花弁がその肩や頬に触れて落下していく。

 撃たれて落下したことがあると、彼は、松下はいつかそう教えてくれた。
 半分だけ死んだんだ。そう告げた彼に対して、自分はなんと返したのだろうか。

 思い出そうとして、まだ寝ぼけているのだと気づいた。
 その姿を最初の記憶と重ねようとしている。もうあれから年月は過ぎているというのに。
 松下の言う千年王国論は難しかったが、どうやら自分とはやり方も重さも違うこともわかって、協力の誘いは丁重に断らせてもらった。

 それでも東京に来る度に会いに行ってしまうのは、何となく気になってしまうからだ。貧乏ではないのにあまり食事を取らないというのだから、ついつい持ってきた食べ物を押しつけてしまうのも理由の一つである。嗜好のせいかお菓子ばかりになってしまうのだが、いつもは食べない種類だと聞いたなら尚更だ。

 できれば、好きになってもらえればいい。甘い物は脳を回転させる彼にとっては必要なもので、何より味を共有して欲しいと思ってしまった。

 ああ、僕にできることなんてそれぐらいだなぁ。

 そこまで回想したところで、立っている松下を見た。
 小さいと思っていた彼は、いつの間にか自分の身長を追い越していた。
 精神的異能児である松下の思考を時間がかければ理解できるかとも思ったが、やはり納得がいく答えは出ないままだ。

 それでも彼の正しさは彼のものだ。否定できるものはない。

 ただ、その傷を見せてもらった時に撃たれたという事実について考えた。いくつかの虚構と現実混じりのテレビから得た記憶をなぞって、それはとても痛かったのだろうなと思いはしたもののそれもやはり虚構でしかなく、本物には届かない。
 同じくらい、死んだという事実も曖昧だ。失うということも。

 もう、全部、置いてきてしまったんだなぁ。

 今更ながらに痛感した。残されたのはこのテレビだけだ。
 名残惜しいとは思わなかった。今までまた会えたらとは思ったものの偶発的に会えたなら幸いと思うぐらいで、自分から動こうとしたことなどなかったのだ。

 荷物は少ない方がいい。いつからだか、自分の時間が止まっていることを知った。
 成長しない身体は時間に縛られない分、便利だ。貯金の関係で心配ではあったが、それも旅先で出会った幽霊族の彼がどうにかしてくれた。
 妖怪と大して変わらないと言われて、なるほどと納得したものである。

 それでよかったはずだった。

「起きてたのか? 山田」
 鼻先を通り過ぎる桃色の向こうから、松下が顔を向ける。
 来年には六年生だと言っていた気がする。中学に進学すればそのシャツはやめてしまうのだろうか。

「おはよう」

 いくつかの思考を絡めたものの口をついたのは場違いなそれだった。
「もうすぐ日が落ちる時間だぞ」
 小さく吹き出した松下が肩を竦める。
 いい出会いでもあったのかもしれない。会う度に身体とは別に変化していく彼は、最初に持っていた重たさだけの暗さやたまに見せていた攻撃性が薄れて、何より自分自身を見るようになった気がした。

 テレビに顎を乗せたまま、降ってくる花弁の向こうにある空を見る。確かに太陽が遠くに行ってしまっていた。
「そうみたいだね」
 夜が明けて、また夜は来る。
 いつか衝動的にキスをしてしまったことがあった。今だときっと背伸びをしなければ届かないだろう。

 忘れていたのだよ。

 時間のこと。もしかしたら、ほんの僅かばかり彼ならと思った期待もあったのかもしれない。あの幽霊族の彼は先日会ったときにも変わらなかったのだ。

「いつからそこにいたのだね」

「ついさっきだよ」
 どこかのドラマのやり取りに似ていると思って彼の足下を見れば、その場に積もっている桜の量の違いがちょっとどころではなかった。
「それならいいんだがね」気づかないふりをする。「もうすぐ散ってしまうそうだよ」
 花見前に見ていたニュースを思い出して告げれば、そうかと答えが返ってきた。
「だいたい散る前にいるよな」
「そうだったかね」
 特に意識したわけではない。
 一定周期で各地を回っているわけではないこと思えば、ただの偶然だろう。

 ただ、春には一度、この場所で花見をすることにしていた。高確率で彼に会えるというのもあるが、何より変わらずにあるのはこの桜ぐらいだった。
 町も人も昔とは大きく姿を変えてしまった。老齢化しつつも同じように花を咲かせるこの木とは違う。

 いつか。

「松下くん」
「なんだ」
 一向に立ち上がらない姿に見かねたのか、視線を合わせるように松下がしゃがみ込んだ。

 テレビ越しの向こう側。伸ばした手はその頬まで届いて、春の温かさよりも熱を持ったそれに、花とも空気とも違う感触に、どうしようもなく込み上げる感情を表現することができなかった。

 落ちる桃色が綺麗だということより、違うピントに心が揺らぐ。
 テレビに身を乗り出す。触れた手の熱が僅かに上がった。
 二度目のキスはいつかとは違う感覚。

「酔ってるのか?」
「わりと」

 同じ会話を口にすれば、また松下が吹き出す。
「言うほど酔ってもないだろう」
 不機嫌そうな顔をされるかと思ったが、触れた手を振り払われることもなかった。

「まあ、誤魔化していることには変わりがないんだろうがな」

 何の話だといつかのように思いはしない。
 あの時と変わってしまったのは自分も同じだ。
 目の後ろの熱も全部押し込んで、いつものように笑う。

 次で最後にしよう。

 これ以上の何かを望んでしまうことは、お互いによくない。
 触れた手をそっと離す。遠ざかる熱を名残惜しんではいけない。

「松下くん、明日も来るかい?」
「わりと近い日付を指定するんだな。珍しい」
「明日を過ぎたら、また次のところに行こうと思っているのだよ」約束はこれで最後に。「桜が散る前に一緒に花見でもどうかね」

 きっと、そうすれば、またこの場所で思い出せるはずだ。

「構わないが」肯定の答えに安心した。「また寝るなよ」
「春は暖かいから仕方が無いのだよ」
 同じくらい側にいたいと思うのも当然のことだ。
「まあ、その時はテレビごと攫われないように見張っておいてやるよ」
 今もそうだったんじゃないのかねと言いかけて、待っていたことは気づいてないふりだったと思い出した。

「そうしてくれると嬉しいね」

 あくびが漏れる。仕方ないなとつぶやいた彼に頭を撫でられた。
 思っていることに気づかれただろうか。撫でられたのは初めてだ。
「身長、縮んだか?」
「松下くんが大きくなっただけだろう」
「そうか」
 身長差ゆえに撫でられるというのも自然なことだろうか。

 それなら、今はこのまま、できればもう少しだけ、撫でてもらいたい。

 それを口にしてしまうと今度こそ泣いてしまうような気がした。口を閉じる。テレビの向こう側にはないものを求めてしまうのは再放送がない分、いつか色褪せて消えてしまいそうだ。
 せめて、桜だけは変わらずに咲きますよう。
 そう祈ることにした。

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