「せっかくの夏なのに、どこにも行ってないのはおかしいよ!」 山田が部屋に響き渡る声を上げたのは、時計の短い針が二よりも少し下を指した頃だった。 古びた洋館の食堂には、三人の子どもしかいない。山田はこの中でも大きな目と丸い黒目の持ち主で、一番の自由人である。この洋館も山田が探検と評して、残りの二人の子どもである埋れ木と松下を散々振り回した結果、見つけた場所だった。 森林を奥に進んでいくと迷ってしまいそうだったが、その辺りに関しては松下がぬかりなく木に目印をつけていたので、さすがだなと埋れ木は感嘆したものである。 見つけた時、洋館の門にはでかでかと立ち入り禁止の札が立っていた。しかし、禁止と言われると興味が湧くものだ。軽々と飛び越える山田に、最初はあまり乗り気でなかった松下も知的好奇心に負け、塀を越えていた。最後まで反対していた埋れ木だが、こうなってしまうと諦めるしかない。本当のところ気になって仕方なかったのだ。 見た目も性格も年齢ですら違う三人の共通点は、悪魔くんと呼ばれる精神的異能児であることだけだ。生まれる前に神に殺される運命を持つはずの三人は、神の気まぐれか見落としか、この世に生を受けたわけである。見た目は子ども、頭脳は大人。なんて、可愛いものではない。身体は子ども、頭は天才というのが正しい。 しかしながら、暗くなるまでには帰りなさいとそれぞれ保護者に言われてしまうのが、悪魔くんであろうと不死身ではない子どもである三人の枷ではあった。その辺りについてはそれぞれだ。破ったりもするし、守ったりもする。 三人で忍び込んだ洋館は、電気もなければ埃だらけだった。長い間使われた形跡も無く、蜘蛛の巣や植物が縦横無尽に広がっている。外が昼間でなければ、一メートル先も見えない真っ暗な世界であることは容易に想像できた。 もっとも普通の子どもではない三人にすれば、どうにかなるとしか思っていないのが事実である。 胸躍る冒険活劇というほど刺激的ではないのは、それぞれの日常の方がよっぽど刺激的だったからだろう。ただ、書庫にある本が三人とも今までに見たことないものだったのが、ただの探検場所を秘密基地に変えてしまった。 面白い本には目がないのも三人の共通点である。 秘密基地にするには、このままでは不便だ。三人で大掃除を決めたまでは良かった。しかしながら、山田がなんだかんだとサボっていたのを埋れ木は知っている。学校となれば注意すべきところだ。いくら普段は温厚な性格と言われる埋れ木であっても悪い事は悪いと言うべきだと思う。 しかし、注意しようにもそれが性格であるのなら仕方がない。そんなことは、しばらく一緒に居て理解しているし、誰だって欠点の一つはあるのだ。身も蓋もないことを言えば、見逃した。できれば喧嘩を避けたいのが本音だし、埋れ木としては掃除という労働とはいえこの三人で過ごすのは、同級生といるのとは違う楽しさがあった。 一番大人びている松下が居ないと気づいたのは、ほとんど掃除が終わり際に近づいてからのことだ。一度、廊下の雑巾掛けの際に書庫に入っていくのを見たのを思い出して中に覗けば、彼は大きな本を片手にカーペットで寝息を立てていた。 一瞬は本を読みに来たのかと思っていたのだが、中の様子は最初に見た時と違っていたことに、足を踏み入れてから気づいた。埃が無くなっているのはもちろんだが、本が整頓されていたのだ。乱雑に散らばっていた本はすべて本棚に納められ、それも内容や巻数で揃えられていた。まるで、新しい図書館に来たかのようだと埋れ木は思ったものだ。 この場所を最初に手を着けるあたりが、何となく松下らしい。 そうして完成した秘密基地は、外からはただの幽霊屋敷でも三人にとって憩いの場のようなものになっていた。 それぞれ好きな時間に来て、好きな様にくつろいで、好きな時に帰る。たまには、三人で予定を合わせて、読んだ本について議論したり感想を言ったり、それは普段集まるよりもよけいな雑音が入らないせいか、秘密を共有しているからか、山田にはやたらとわくわくすることだった。 ただ山田が気になっていることがある。自分に比べてほとんど家から出ない松下や本に熱中すると止まらなくなる埋れ木というのは、勿体ないというべきか日光に当たらない野菜のようにしなびてしまいそうだと、ふと考えてしまうのだ。頭に浮かんだのは、自分の召喚した悪魔であるメフィストである。友人二人がそうなるのは、とても恐ろしいことだ。 自分たちはまだ若いのである。子どもである。子どもは遊ぶのが仕事なのだと、テレビでよくわからない自称専門家が言っていた。 今年は何かと台風が接近することが多かったせいか、外に出ることがほとんどできなかったのである。 「山田。暦はもう秋だぞ」 頬杖をつきながら口にしたのは、山田の左斜めに座る松下だった。 基本的に無愛想で仏頂面だ。たまに口も悪いが、埋れ木が思うにそれは佐藤と呼ばれる彼の使徒の前だけだと思っている。基本的に、松下が一番厳しいのは敵と自分自身に対してだけだ。 「松下君はわかってないよ。肝心なのは暦じゃなくて、気温だよ。秋にしてはまだ少し暑いんだから、まだ残暑扱いでいいと思わない?」 山田も埋れ木も松下のことは『くん』付けで呼んでいる。何かを意識しているわけではないのだが、最初にそう呼ばれた時の松下はどこかぎこちなかった。どこか顔が赤らんでいたことを埋れ木は知っていて、この中で一番彼は取り引き抜きの人付き合いに対して不慣れなんだなと改めて思ったものだ。それでいえば、埋れ木の使徒であるメフィスト二世も似たところがあるが、彼は松下よりももっと感情の起伏を見せるものである。 「残暑ならもっと暑い」 「そうやって重箱の箸をつつくような真似してるから、松下君は友だちが少ないんだよ」 大袈裟に肩を竦めなら、人の触れてはいけないところに突入してくるのが山田である。 そういう時、松下は僅かばかり短い眉を潜めて、それなりの反論を返す。しばしば喧嘩のような気配も漂わせることがあって、埋れ木はそういう時に仲裁役に買って出なければならないのが、悩みの種ではあった。止めれば収まってはくれるのだけど、根が頑固なところは三人とも共通していて、しばらく二人がそっぽ向く度に埋れ木はため息をもらすのだ。もっとも次に集まる時には戻っている辺り、本気で喧嘩なんてしてないだなとも思う。 それでも喧嘩はあまり得意ではない埋れ木としては、今日も始まるのかと諦めに似たものを感じながら、向かい側に座る松下に視線を向けた。 三人で一番の華奢な体躯の彼ではあるが、肝心な時はいつも冷静でいて、決断も早い。 「松下くん?」 だからこそ、無意識に彼の名前が口をついてしまった。 というのも眉を寄せるまではいつも通りだった松下が、口を開いたものの何も言わずに閉じてしまったのだ。おまけに、その瞳がどこか困惑の色を浮かばせていたのである。 山田もそれに気づいたようで、僅かに首をかしげる。瞬きをしている埋れ木を見て、身体を寄せてきた。 「あれ、松下君だよね?」 まるで、こんなやつは知らないと言っているかのようだった。 「反応が違うからって全否定するのはよくないよ」 「だって、いつもならこう、図星を指されながらもどうにか理屈で反論してくるじゃない」 身振り手振りで山田が言うのを聞きながら、埋れ木も同じことを考えていた。 けれども記憶を探るが原因らしきものが思いつかない。それなら、本人に聞けばいいのだが、それでいいのかどうか迷いが浮かぶ。それが触れていけない話題だったら、という懸念がよぎったのだ。 埋れ木が思うに、松下はわかりにくいだけで周りよりずっと繊細な誰よりも優しい人である。それを言ったら、埋れ木の方が優しいとメフィスト二世に断言されたが、自分の場合はわかりやすいだけのような気がしているのだ。 大切なものを大切だと口にすることは、簡単ではない。けれども埋れ木にはできないわけではなかった。けれど、松下はそれを行動には示せても口に出せないことが多い。あるいは、言っても遠回しであるか、反対の意味合いになってしまう。 「ごめんね」 そうやって埋れ木が思案している間に、山田は俯いた松下の表情を下から覗きこむように身を乗り出していた。 謝るなんてことはできる限りしたくないのだが、山田としてもここまで松下が動揺したのを見た事がなかった。ということは、多分、自分は相当酷いことを言ったのか、タイミングが悪かったということである。反論しない松下をからかっても山田としては面白くなかった。 山田の謝罪に驚いて跳ねあがった松下は、言葉を失ったかのように金魚のようにパクパクと動かしている。二人にとっては、滑稽というよりも珍しいものを見たような気分だった。だが、埋れ木にしてみれば、謝る山田というのも同じくらい珍しい。 「そりゃ松下君は友だちが少ないけど、居ないわけじゃないから傷つくことなんてないんだよ。僕も」ちらりと山田は埋れ木を見る。「僕は松下君の友だちなんだから」 言い直した山田の言葉に異議を覚えて、埋れ木は思わず椅子から立ち上がる。 「山田くん、今、こっち見たよね! 僕もって言ったよね!」 なんだか仲間はずれの気持ちになって叫んでみれば、山田はわざとらしく両手を上げるジェスチャーをして見せた。 「ええ! それってどういう意味!」 というか、松下がからかえないと思った途端、矛先が向けられるとは埋れ木としては想定外である。 意味ありげに目を伏せた山田は、一度だけ埋れ木を見て、視線を逸らした。 この釈然としない気持ちはどう表現するべきだろう。 「違う」 ようやく冷静になったのか、椅子に座り直した松下がぽつりと漏らして、埋れ木は勢いよく身体を半回転させた。 「そうだよ! 僕だって松下くんの友だちなんだから!」 必死になって叫べば、言われた方の松下は両手で頭を抱えながら俯いてしまった。 「うわー。振られた」 「振られたって何! 友だちに振られるってあるの!」 「あるよ。実際、ダニエルは友だちじゃないし」 さらりとそう口にする山田の笑顔は恐ろしいぐらいの黒い輝きを見せていて、埋れ木は急に冷静になってしまった。 ダニエルに関しては、突っ込まない方がよさそうだ。何度か山田の口から聞いた名前ではあるが、誰なのか一度も教えてもらったことはない。とりあえず、今は松下について考えることにする。 てっきり拒否されたのかと思ったが、彼の耳は僅かに赤くなっていた。照れているだけかと再び椅子に腰を下ろした埋れ木は安堵の息をつく。 相変わらずこういう言葉に弱いんだなと思いながら、山田は頬杖をついて松下を見た。 「なんで、お前たちは平然とそういうことを言えるんだ」 ぼそりとつぶやいた声が聞こえて、山田と埋れ木は思わず顔を見合わせた。 「というか、松下くんが過剰反応なんだよ」 そういうところは微笑ましいと埋れ木は思う。普段は淡々と政治家はかくあるべきと話す松下も尊敬できるとは思うが、それだけだと完璧すぎて一線を引いてしまいそうになるのだ。こういう不器用な一面を知っているからこそ、気軽にというと誤解されそうだけど、話しやすいのは事実である。 「そうそう。愛の告白されたわけじゃあるまいし」 頷きながら言った山田の声に、松下が弾かれるように顔を上げた。 その必死な形相には二人して面を食らったが、それよりも彼の発言はもっと威力があった。 「愛というのはなんだ?」 無言空間を生み出すには十分な質問だった。 問題は内容というよりもそれを言った本人である。松下の口からそれが出るのは正直、意外だった。答えなんて、彼は既に持っているはずだ。松下がそれを口にするなんて、どこか違和感がある。戸惑う埋れ木の斜め隣で、山田がわざとらしく首を傾げた。 「アルファベットの一つじゃない?」 「わざと言ってるだろ」 鋭い眼差しよりもさらに尖った声が飛んできて、山田は反論主である松下を見た。 「じゃあ、笑ってもいい?」 「山田くん、それはさすがに酷いと思う」 しかも大真面目に聞くことではない。 山田は天井を一度見上げて、純粋な瞳のまま松下を見た。 「そんなこと聞くってことは、誰か好きな人でもできたの?」 「ええ!」 声を上げた後に、それなら松下が困惑しようと愛を問いかけようとおかしくないと、埋れ木は思った。 二人分の視線を受ける松下と言えば、眉間に皺を浮かばせながらもどこか不思議そうに二人を見ていた。 「好きな人? どういう意味だ?」 「ライクじゃなくて、ラブな人のことだよ」 松下は俯いて、それから埋れ木に視線を向けた。解釈を求められているらしい。少し考えて、山田とは別の言い方で説明してみることにする。 「松下くんはみんなを幸せにしたいんだよね」 誰もが幸福を手に入れられる世界を実現しようというのが、松下の千年王国の根本だ。 「ああ」 「それとは別に、どうしても幸せにしたいって人はいる?」 「ちなみに、たった一人限定だよ」 普通に答えようとした松下を遮るように、山田が条件を提示した。 「一人か?」 問いかける松下の瞳が揺れたように見えたのは、気のせいかもしれない。埋れ木はそんなことを思いながらも頷いた。 山田の言う好きな人は、多分、恋愛の意味だ。そうことは、埋れ木にもよくわかってはいない。ただ、自分の妹を本気で好きらしいメフィスト二世を見る限り、つらい時もあるけれどもそれは尊いもので、大事にしなきゃいけないことだけはわかっていた。 同じ問いかけをされたら、埋れ木だって困ってしまうだろう。家族も仲間もこうして友だちもいる今は、みんな幸せになって欲しいと思う。 ドラマであるような全部捨ててまで二人きりになりたい相手というのが、埋れ木には思いつかなかった。 考え込む松下を横目に、肩を竦めた山田を見る。 「ちなみに、山田くんはいるの?」 「何が?」 「好きな人」 じっと埋れ木を見ていた山田は、目を細めただけで何も言わなかった。それがやたらとミステリアスに見えて、そういうのは自分にはないなと違いを見せつけられた気がする。 「そういうとこ、山田くんの魅力だよね」 「そういうとこ?」 実際、山田にもよくわかっていない。埋れ木からすればその行動が既に無自覚なのだから、説明のしようもなかった。 「なんでもない」 悔しいなぁと思いながら松下を見れば、ちょうど垂れ目気味な瞼が伏せられたところだった。 「僕には選べない」 ハッキリと断言した松下は、いつもの理知的な瞳に戻っていた。 こういう時の彼を見ると、山田や埋れ木は胸が躍ってしまう。明日には世界が全部変わってしまうんじゃないかという期待をしてしまいそうになるのだ。 「けど、松下君にしては悩んでいたよね? チラっとでも思いついた人がいるんじゃないの?」 今にも肘でつついてきそうな勢いで山田が聞けば、松下は唇を曲げた。 「それは別のことだ。結論は最初から決まっている」 「ふぅん」 どこか釈然としなさそうに山田が相槌を打った。 「でも、松下くんがそういうこと聞くのって珍しいよね」 彼が質問をするのは、ニュースであるとか本に書かれた文章的解釈の話がほとんどである。 「そもそも、何がどうなってその疑問になったのサ?」 松下はほんの僅かばかり迷って、ついでに辺りを軽く見回した後、二人に視線を向ける。 → |