「佐藤が僕には愛が足りないと言ってきたんだ」

 意味を理解するのに、二人して時間が掛った。松下の言う佐藤と呼ばれる元二代目家庭教師の姿は、二人にもすぐに思い出せる。というのも松下は、その家庭教師の愚痴をよく言う。何度か遊びに行った先で迎えに来るのを見たことがあった。
 いつも髪をきちんとセットしたスーツ姿で、なぜか水玉のネクタイをしている。身長は比較的高めで、生真面目そうな雰囲気の男だ。松下いわく、未婚らしい。
「なにそれ」
 愛が足りないと言う意味がわからないのではなく、それを松下に言うのが理解できなかった。大人って馬鹿なんだなと思いながら、山田は目を細める。
「いや、わからないから聞いたんだ」
「松下くんはそんなことないと思うけど」
 埋れ木としてもその発言は賛成できなかった。けれどもよく考えれば、普段の松下の言葉を思うと、そういう風に見られることも仕方ないと思わなくもない。

「もしかして、その佐藤と松下君って恋人同士なの?」

 さらりと言った山田の声に、松下が机を叩いて立ち上がった。が、何か思い立ったように席に着く。
「そんなわけないだろう」
 心底、呆れたような顔で松下は言う。思い切り否定しかけて、そうするとよけいに本当のように聞こえてしまうことに気づいたのだろう。
「なんだ。違うの?」
「山田くん、どうして残念そうなの」
「だって、面白そうだよ。家庭教師と生徒って、禁断の愛みたいで」
「そんな面倒事はごめんだ」
「それって、面倒じゃなかったらいいってこと?」
「……お前、あいつと一つ屋根の下で過ごしてみろ。小姑みたいに煩いぞ」
「一晩のお供ってこと? えっちぃね!」
 いきなり妙なことを言い出した山田に、なんてことを言うんだと埋れ木は顔を赤らめる。そういうのは男女でするものであって、と思考しながらぐるぐると目が回るような感覚を味わっている埋れ木の向かい側で、やけに冷静な松下が目を細めた。

「耳を引きちぎるぞ」

 目が本気だった。山田は浮かべていた笑顔を渋々ひっこめてから、唇を尖らせる。
「つまんなーい」
「人をおもちゃ扱いするな」
 テーブルに顎を乗せて見上げてくる山田に向かって、松下が言い放つ。
 眉を寄せたその表情を見ながら、ふとその佐藤について考えてみた。例えば、山田や埋れ木には見慣れたもので、それが松下であると知っている。どこまでが本気で、どこまではそうじゃないのかある程度はわかるけれども、佐藤は知らないのではないだろうか。
「なんだ?」
 じっと見ていたせいか、松下が不審そうに聞く。

「佐藤さん、寂しいんじゃない?」

「は?」
 面白い顔と口には出さずに思いながら、山田はさっきまで何やら悶えていた埋れ木を見る。
「埋れ木君もそう思わない?」
 ようやく冷静になったらしい埋れ木が思案している様子を見ながら問いかけた。
「うん。佐藤さんは松下くんに優しくしてもらいたいんだよ。あっ、変な意味じゃないよ!」
 そこで否定をすると怪しいよと山田は思いながら、埋れ木に視線を向けた。
「埋れ木君がムッツリだと判明ー」
「ち、違うよ! そもそも山田くんが変なこと言うのが悪いんじゃないか!」
「変なことなんて言ってないよ?」
「そんな目で見ないで! 僕は変じゃないよ!」

「世間一般的な目で見たら、僕ら三人とも変だと思うよ?」

 魔法が夢物語でないことも悪魔が存在することも知ってしまっていて、さらには悪魔を従えてしまっているのだ。ポケットにあるソロモンの笛に触れて、山田はこれこそが悪魔の弱点だなんて、不思議だよなと思っていた。
「あーもう! そういうことじゃなくて!」
 それでも咄嗟に言いたいことが口をつかなかった埋れ木は頭を抱えたが、すぐに諦めて座った。こういうことで山田に勝てるわけがないのだ。

「そういえば、佐藤さんってナルシストなんだよね?」
「は?」
「そうなの?」
「前に外で見かけたけど、鏡見ながら一人でうんうん頷いてたよ。あれって、自己陶酔してる顔だと思うんだけど」
「……あの家ダニ」
「松下くん、目が怖いよ! 落ちついて!」
 肌を撫でるような冷気を感じて、埋れ木は慌てて両手を上下に動かす。松下はとにかく佐藤に厳しい。
「けどさ。比べたら僕の方が絶対に可愛いよね」
 にこにこと笑いながら、本気か冗談かわからない発言をされて、埋れ木と松下は一瞬だけ互いを見た。

「相手が家ダニなら、圧勝だろ」
「そんなの今更じゃない?」

 全くもって予測と違う答えが両者から返ってきた。山田は驚きの表情で、二人を交互に見る。
「この流れだと、お前の方がナルシストか! っていうツッコミがくるんじゃないの?」
「大丈夫。そんな心配しなくても山田君は可愛いよ」
「そうだな」

「……なんか怖いからやめて」

 同じことを言われるなら、もっと棒読みで呆れたように見られるはずなのに、二人は至って大真面目だった。ましてや、松下が冗談など口にするわけがない。いじめられているなら、さておき。
 そう思う山田を横目に、松下が何かに気づいたらしく埋れ木を見た。

「埋れ木、優しいというのは具体的にはどういうことだ?」
「えっ? うーん。説明するのは少し難しいかも。けど、なんていうのかな。例えば、相手のことを知って考えてあげることとか、話を聴いてあげることとか。あっ、ただ聴くだけじゃ駄目だよ。どんな馬鹿馬鹿しく思えても否定しないで、一緒に考えてあげること、場合によっては解決を手伝ってあげること、かな?」
 山田はふと自分がそれを実行することを想像して、肩を竦めた。

「そういうのって、面倒だよね」

「ええ! それを山田くんが言っちゃうの!」
「優しいなんて相手が勝手に思うことであって、こっち側で考えるものじゃないよ」
 心底、難儀そうな顔で山田は言うと、小さく息をついて背筋を伸ばす。
「本当はわかってるんでしょ?」
 視線を向けた先には、松下が居た。見つめ返すその三白眼を眺めながら、その考えを読みとろうともしたのだけど、途中で放り投げた。山田にわかったのはたった一つだけだ。
「……そうだな」
「えっ、何が?」
 二人の会話についていけずに首を傾げる埋れ木に対して、山田は人差し指を立てた。

「君は埋れ木君で、彼は松下君で、僕は山田。変えようと思って変えられる性格なら、とっくに変わってるってことだよ。今の松下君に対して、佐藤さんに優しくなれなんて無理な話ってこと。まぁ、心掛けるのは悪くないと思うけど、わかりやすく優しい松下くんなんて、もう別人だよね」

「皮肉か?」
「そうだよ」
 全く悪びれた様子のない肯定に、松下がため息をついた。
「つまり、どうしようもないってこと?」
 確認するように言った埋れ木に、山田は頷く。

「そもそも、佐藤さんは自分の立場をよく考えたらいいんだよ。足りないも何も松下君は最初から答えを示してるじゃない」
 問い返そうと思って、それより先に埋れ木も考えてみることにした。松下にとっての佐藤の立ち位置ということは。
「そっか。十二使徒!」
 パンと手を叩いた埋れ木を横目に、山田は悪戯な笑みを浮かべて松下を見る。

「松下君は、佐藤さんを選んでるんだから」

 きっとヤモリビトという存在のままで扱うことも松下にはできたはずだ。それなのにそうしなかった。自分を騙した相手をそれでも隣に置く理由なんて、一つしかない。
「……意味ありげな言い方をするな。からかうのは終わりか」
「そろそろ、真面目に話をしようかと思って」
「それは遅すぎるよ」
 どこまで真面目でどこまでが冗談なのかわからないのは、山田の要領のよさなのかもしれないと思いながら、埋れ木は苦笑する。
「そうかな?」
「そうだよ」

「だって、みんなで旅行でも行きたいでしょ?」

 山田としては、そろそろ自分の提示した話題について話をしたいと思ったのだ。
 真面目な話題だけなんて面白味にかけるし、飽きてしまう。そうやって、頭ばっかり使っているから松下はよけいなことを考えるし、埋れ木は真剣に答えてしまうのだ。
 そういう二人も嫌いではないけど、と心の中で山田は前置きして、それだけだときっといつか二人とも潰れてしまわないか心配なんだと、言えるわけがないなと笑った。
「山田くん、その話がしたかっただけじゃない」
 どういう目的で海に行く気なんだろうと、埋れ木は不思議に思う。乗り気になれない理由は、単純に海が危険だと知っているからだ。
「悪くはないんじゃないか」
「ええ! 松下くん、乗っちゃうの!」
 否定を一番口にする人物の言葉に埋れ木が声をあげる。気のせいにも見える一瞬だけ、松下が笑ったような気がした。


 用事を思い出したと山田が帰ってから、一時間ほど過ぎていた。一番騒がしい彼が帰ったので、埋れ木と松下の二人は書庫に移動して、いつもの通り本を読み漁っていた。
 傾いたオレンジの光が室内を照らす。一人で過ごすには寂しい時間だと埋れ木は思うのだが、背後にいる松下はどうなのだろう。
 気になりはしたものの聞きたいことは別にあった。

「松下くん。聞いてもいい?」

「なんだ?」
 背中あわせに座っていたのは特別な理由があったわけではなくて、単純に背中が痛くなってきたからだった。
 けれど背後から声が返ってくるのは、少しくすぐったい感じがする。笑みが浮かぶのを隠しきることができずに、でも顔は見えないからいいかと、埋れ木は質問を投げかける。
「山田くんの提案に乗るなんて珍しいね」
 松下のことだから、日焼けするとかそんな暇はないとか理由をつけてくると思っていた。
「話を聞いてもらったからな」
 当然だと口にする松下は、建前でもなんでもなくそう思っているのがわかってしまった。

「役には立てた?」

「変なことを聞くんだな」
「わかってるけど、なんとなく」
 意地悪な質問だったなと後になって気づきながら、どこか嬉しくて仕方がなかった。
 きっとこんなにも背中が温かいからなんだろう。

「役に立つから一緒にいるんじゃない」

 全部一人で抱え込んで、全部一人でやろうとすることが多い松下が、それでも誰かと長く行動するのは、利用価値とは違う。
 色褪せたページを撫でながら、埋れ木は目を細めた。
 敵に厳しい松下が味方に優しいのは、特別だからだ。その気持ちは、自分が仲間に抱いているそれに似ている。

「うん」

 だいぶ間をあけて、埋れ木は頷いた。


END
[2011/05/09]