(※の部分が『シンキング』になっています)


 何がどうしてそうなったのか、僕にはよくわからない。

 不思議とその辺りの流れについては誰かに抜きとられたかのように空白になってしまっていて、その後に関する記憶の一部も同じように消えてしまっていた。
 ただ一つだけ、記憶の空白にハッキリと浮かび上がった場面がある。

 佐藤が僕の机を両手で叩きつけた音が、鼓膜を突き破る勢いで響いた。

「メシヤには愛が足りないんです!」

 そう叫んだ佐藤の声は、今までに聞いたことのない震えた音をしていた。
 彼が僕に対して怒るのは珍しくなくて、それが僕を悪魔くんから普通の子どもに戻したいがゆえであることもわかってはいたが、僕はそれを受け入れるわけにはいかなかった。
 話し合いでどうにかなる問題でもない。それが原因で何度か佐藤に怒られ、また僕も反論をしてきたわけなのだが、その時の僕は何も返せなかったのだ。

 それなら――ともう一人の僕がつぶやいた声は、最後まで聞こえなかった。いや、多分、聞きたくなかったのだ。

 今になって思えば、それゆえに僕は頭が真っ白になって記憶が飛んだのだと思う。それこそ、しばらく読んでいた本の内容も頭に入らなくなるぐらいに。
「“あい”か」
 佐藤が居なくなった部屋でつぶやいてみて、漢字に変えて、辞典で引いてみた。

 結論から言わせれば、種類が多すぎて、佐藤の言う僕に足りない“愛”とやらが全くわからなかった。





 いつの間にか、蝉の声が聞こえなくなっていた。つい先日まではうるさいぐらいに叫んでいたはずなのに、気づけば流れている時間が少し怖いものだなと思う。
 時間の経過は、知らない間に世界が徐々に崩壊しているような焦りを僕にもたらして、気づけば手の施しようがなくなってしまわないかと不安を掻きたてるのだ。

「違うな」

 埋れ木と別れた帰り道で独り言。自分の考えに対する否定を口にして、歩く速度を上げた。
 炎のように赤い夕方は好きではない。夜になってしまえばその時間は自分のものなのに、昼と夜に位置する中途半端な明るさのこの時間は、やたらと奥にしまっているはずの感情を抉りだす錯覚すら覚える。
 自分よりも大きな子どもが母親に連れられ通り過ぎるのを横目に、ふと足を止めた。

「本当に怖いのは」

 誰かを失うことだ。
 僕はそれを知っている。だからこそ、無駄な争いなんて無くすべきだ。弱い人間だけが死に絶える世の中など間違っている。

 それを正すために僕が存在できるのだとしたら、きっと、何より、僕自身が存在できる世界が間違っているのだ。

 脇に抱えていた本を持ち直して、拳を握りしめた。
 考えを振り払うように頭を振って、再び足を踏み出す。

 蝉の寿命は七日間。神が世界を構築したのも七日間。
 すべてを壊して、作り直すのとしたら、七日以上かかるだろう。それを出来るだけ早くするには、どうするべきか。

「犠牲は少ない方がいい」

 この辺りが埋れ木とは全く意見が合わないところだ。彼は犠牲もなく、壊さずに済む解決法を求めている。
 けれど僕らは中身がどうであれ、見た目のハンデが大きい。大人は脅すか金をちらつかせねば、子どもの意見など聞いてくれはしないのだ。

 ふと最初に出会った時の佐藤を思い出した。彼だって、魔力を見せるまではただの頭がいいだけの子どもだと思っていたのだ。
 それがいつか恐怖に変わって、畏れになって、最後には恨みになったのを僕は知っている。

 今はそのどれでもなかった。それを思うと、ただの子どもの扱いされるのは好きではないが――。

「悪くはないんだよな」

 思わず漏れたつぶやきは自分自身のもののはずなのに、どこか他人事のように聞こえた。



 前言撤回。こいつはただの面倒な奴だ。
 扉を開けるなり、玄関先で土下座する男が居た。見慣れたスーツの背中を見ながら、僕は肩を竦める。
 無視して通り過ぎるか、気づかない振りをして踏んで行くか、一瞬だけ悩んだ。

「おい、家ダニ」
「申し訳ありませんでした!」

訳を聞こうとしたら、同じタイミングで謝罪された。
「何のことだ?」
 本気で意味がわからない。口喧嘩は何度もしているが、あれは佐藤なりの正論なので、謝るのは少し違う気がする。
「昨日はとんだご迷惑をおかけしたようで」
「ああ」
 なんだ、そのことかと思って、靴を脱いだ。頭を下げたままの佐藤は、対して身長が高くもない自分よりも小さくて、なんだか優越感を覚える。
 だが、この状態にさせておくのは悪いというか、理不尽だなと軽く肩を叩いた。

「いいんだ。覚えてないことを謝られても仕方がない」

 大方、蛙男あたりがよけいなお節介を焼いてくれたのだろう。とてもいい部下ではあるが、やや盲心的な忠誠を誓う使徒を思い浮かべ、僕は息を吐いた。
 あれが長所で短所だな。
「メシヤ」
 ゆっくりと佐藤が顔を上げる。明らかに目が真っ赤で逃げたくなった。
 いい年をした大人が号泣する姿を見る趣味なんぞない。

 けれどもそれよりも大事なことを思い出して、質問を投げかけた。
「体調はいいのか?」
 実は昨日の件が気になったこともあって、出掛ける前に佐藤の部屋に行ったのだ。その時は、明らかに気分が悪そうに寝ていたのである。
「え? ええ。蛙男さんがよくわからない苦い薬を持ってきてくれたので」
 驚愕を浮かべるその表情はやたらと滑稽に見えて、けれども意味はわからなかった。

 そのわけのわからない薬は万能薬だと、蛙男がいつか自分にも飲ませたものだと予測がついた。正直、無茶苦茶苦いどころか、口に含むと形容したくない味がするので、僕は大嫌いだ。

 それにしても佐藤は何を驚いているんだ? まあ、いいか。

 疑問に重大性を感じなかったので、すぐに自己完結した。
 その目に注目さえしなければ、朝と比べて顔色はよくなっているようだし、声も乱れていない。

「それならいい」

 何か病気なのかと朝の時点では焦ったものだが、実際はただの二日酔いのようだったから、蛙男に頼んで放置したのだ。いや、逃げたのが正しい。
 佐藤を見ていると、昨日言われたことが頭の中を旋回し続けるように回って、冷静でいられなくなりそうだったのだ。耳鳴りのように聞きとれないようなもう一人の自分が、ひたすらに問いかけるのを聞きたくなかった。
 そのまま横を通り過ぎれば、立ち上がった佐藤が背後から追って来た。

「メシヤ!」

「なんだ?」
 振り返りもせず言葉だけ返す。
 隣に並んだ佐藤の視線を斜め上に感じながら、どうにもこの位置は首が痛いと自らの身長の不便さを痛感する。

「怒ってないん、ですか?」

 ぎこちない物言いに、自らの言動を数分前まで遡らせる。そんな対応をした覚えがなかった。
 僕は足を止め、佐藤を見上げる。びくりと身を竦ませる自分よりも年上の男を見ながら眉を寄せた。
「なにを?」
「あっ、いや、朝に」
「朝?」
 言い淀む佐藤の目線が右に左に移動する度、頭を掻きむしりたくなるようなじれったさを覚えて、ひっくり返してやろうかと思いはしたものの一瞬だけだ。

 らしくないな。僕か佐藤か。どっちなのかわからないけれどもそう思う。

「私の部屋に、来られましたよね?」
「そうだな」
 肯定する。佐藤はさらに言い難そうに、何やらぼそぼそとつぶやき始めた。
 この場合は待ってやった方がいいんだろう。けれど気になるのは事実だった。まさか、昨日と同じことを言われやしないかと危惧する。

「……起きてたのか?」

 ふと疑問に突き当たって口にすれば、佐藤は小さく頷いた。
「あっ、いえ、し、しかしですね。メシヤを騙して寝たふりをしていたわけではなくてですね!」
 必死に佐藤が言い訳をしているが、わざとそうしていたわけではないことぐらいわかっているのだ。

 問題は、あの時の自分の表情がどうなっていたのかということである。

 どうりで怯えられるわけだと思いながら、僕は一呼吸置いてから不安げな佐藤を見た。
「お前に対して怒っていたわけじゃない」
 蛙男いわく、昨日、何やら夜にふらっと出て行った佐藤は帰って来るなり、僕の部屋に来たそうだ。気になって後を追ってみれば、僕の前で号泣する佐藤と呆然と固まっている僕がいて大層、驚いたらしい。

 それを聞いても思い出せなかった。蛙男が特に僕に対して変だとは言わなかったということは、無意識ながら違和感のない程度の会話ができていたのかもしれない。
「自棄酒か何かじゃないですか?」
 呆れたように口にした蛙男の言葉を耳にしながら、僕は彼を追い詰めたのかもしれないと考えてしまったのだ。

「もし、お前にそう見えたのなら、それは僕自身に対してのことだから気にするな」
「しかし、」
「それより珈琲を淹れてこい。前見たいに小さじ一杯でもミルクを混ぜるようなことはするなよ」

「気づいてたんですか?」

 気づいてないと思っていたのか、と問い返したい気持ちだ。
 大方、栄養がどうこうと理由だろうが、佐藤はこっそりと小細工してくることが度々あった。毒なんて仕込みはしないだろうし、そこまで露骨でないからツッコミはしないのだが、僕はブラックが好きなのだ。

「早くしろよ。部屋に持ってきてくれればいいから」
 答えは返さずに僕は足を踏み出そうとして、言い忘れたと振り返る。
「おい、佐藤」
 どこか釈然としないながらもキッチンに向かおうとした佐藤が足を止めて、勢いよく振り向くと僕を見た。

 だから、どうして、そこで驚いた顔をするんだ。

「二つ持ってこいよ」
「えっ?」

「一つはお前の分だ」

 その表情を確認することはせずに、僕は今度こそ部屋に向かう。
 やたらと部屋が静かなのは、他の使徒が戻って来てないからなのだろう。サボるか悪巧みしていそうなのか一匹思い浮かぶが、その時はその時でどうにかすればいい。

 机の上に持っていた本を乗せて、椅子に座る。なんだか、凄く疲れた。
 昨日使った辞典が置いたままになっているのを横目に、頬杖をつく。
 そういえば、愛の種類には家族愛なんてものがあったなとぼんやり思った。

 母親は死んでしまったし、父親は仕事漬けだったけれども愛が足りないと思った事なんて一度もなければ、気にすることもなかった。
 それよりも早く使命を成し遂げなければとばかり考えていたし、それは今も変わってはいない。

 ――それなら、お前は僕を愛してるとでも言うつもりか?

 あの時、もう一人の自分が僕に投げかけた疑問など、口にできたものではなかった。

「馬鹿馬鹿しい」

 そんなことは重大ではない。
 肝心なのはそこに居てくれるかどうかだ。そんなもの問いかけずとも見ればわかる。
 仮に嫌われていたところで構わない。本気で嫌になったなら勝手に出て行けばいいのだ。

「それだけのことだ」

 愛してるなんて繰り返せば実態が伴うわけではない。形のないものは、目に見えないものは、見ようと思わなければそこにはないものと同じなのだ。

 けれどこの感情は佐藤には伝わらないだろう。彼は多分、目に見えるものの方が確かに思える大人で、僕はやっぱり子どもなのだ。

「どうしました?」
 降ってきた声に、ゆるりと顔を上げる。
 どうやら、僕は俯いていたらしい。
「勝手に入って来るな」

「ノックはしたんですが、返事がなかったので。油断するとメシヤは倒れますからね。そもそも三食きちんと食べることが、人間には必要なんですよ」

 うだうだと説教をしはじめる佐藤は、毎度ながら床下に転がしてやりたい。
 しかし、湯気の立った珈琲が僕の横で香ばしい匂いを発していたので、見逃してやることにする。きっとミルクは入ってない。

「ありがとう」

 僕の声にぴたりと佐藤の説教が止んだ。横に立つ男の狐に摘ままれたような顔を眺めながら、珈琲を口に含む。

 少し甘かった。砂糖でも入れやがったか。

 文句が喉元まできたが、不思議とそれを吐き出す気にならなかった。理由はよくわからない。

「メシヤ、何かあったんですか?」

 まるで、頭でも打ったんですかと言われたような気がした。
 僕の置いたカップの隣で、佐藤の珈琲が揺れている。あれは甘ったるいんだろうなとぼんやり思いながら、視線を上に向けた。
「何かってなんだ?」
「いつもと違う気がするんですが」
「どこがだ?」

 むしろ、いつもと違うのはお前の方だろう。

「ありがとう、なんて」
「僕がいつもは言わないみたいな顔をするな」
「いえ、言ってますよ。けど」
「けど?」
 戸惑いながら目を瞬く佐藤は、本当に幽霊でも見た顔をしたままだ。
 それから、僕が帰って来てからずっと強張ったままだった身体から、ようやく力を抜いた。

「いえ」

 今までに聞いたことのない声を出した佐藤は、

「なんでもありません」

 泣き出しそうに顔を歪めて、唇を綻ばせた。

 こいつ、こんな風に笑うんだな。
 じんわりと染み込んでいくようなこの感覚を僕は知らない。知らないから、表情一つどころか言葉一つも表に出せなくて、ただただ佐藤を見ることしかできなかった。