「どうすればいいか、わからなかったんだ」 「なにそれ、恋する乙女か何か?」 心底、呆れたように肩を落とす山田の機嫌は悪い。 申し訳ないのは百も承知だが、あの後、佐藤といると妙に居心地が悪くて、寝るという名目でしばらく夜間飛行に出掛けた。そうして、山田の家に来たわけである。 布団を敷いていた山田は、僕以上に眉を潜めながらも素直に窓を開けてくれた。 「恋なわけないだろ」 「そうだね。恋なわけないね」 がっくりと肩を落としながら、「珈琲でも飲む?」と聞かれたので首を振る。先程、一気に飲み干してしまったので、舌がびりびりしているのだ。 「今日は一人なのか?」 いつもは、誰かが入れ替わり立ち替わりで居るイメージなのだが、不思議と室内は静かである。 「近くで花火大会があるとかで、それに行ったんだよ」 「留守番なんて珍しい」 いつもなら率先して出掛けようという山田が、家にいるのには違和感があった。 「というか、逃げてきた」 「は?」 「そういえば、松下くんってお祭りとか行ったことある?」 「いや」 思えば、そういうイベントには参加したことがない。花火大会を遠くから見るぐらいならあったが、参加どころか誰かに誘われたこともなかった。 「人が多いのは別にいいんだけど、金魚とかひよこを売り物にしてる店があってさ。あれがもう、見てられなくてというか苛々してきて」 「ペットショップみたいなものか?」 「あれより管理状態が酷いよ。餌は与えてるんだろうけど、明らかに弱ってるのが見ててすぐわかる。ヒヨコなんて、どうやってんのか知らないけど黄色じゃないんだよ! 赤とか青とか緑とか!」 まるで魔物だな。 想像したヒヨコの姿に顔を顰めれば、ふっと山田が表情を緩ませた。 「まぁ、金魚はさておきヒヨコの箱はひっくり返してきたけど」 「パニックになるな」 「うん。だから、逃げてきた。しつこく追いかけられたんだけど、どうにか身元はわれずに済んだよ」 「明らかに目立つ服装なのにか?」 「松下くんもじゃない」 警戒色と評される黒と黄色の縞模様のデザインを着けている人間の数など、そんなに多くはないはずだ。 「ちゃんとダニエルの身ぐるみ剥いで、変装してからの実行だったから問題ないよ」 ダニエルは確か、かの独裁者ヒトラーの息子だったはずだ。閉じているのか開いているのかわからない目をした彼は、どちらかというと軍服のイメージが強い。 「軍服も目立つんじゃないのか?」 ハッキリ言って解決していない。濡れ衣を着せたというのなら、納得できたのだが。 「違う違う。あいつ、日本の文化に感動したとか言って甚平着てたから、むしろ周りに溶け込んでたんだよ」 山田の瞳が黒々と光るのを見ながら、それはダニエルとやらも苦労してるんだろうと他人事のように思う。一度だけ、遠目に姿を見た事があるぐらいでよくは知らない相手ではあった。 それでも山田が彼を大事にしていることぐらいは、なんとなくわかった。 「つまり、いつもの服はそのダニエルが着けてるわけだな」 「そうだね」 びっくりするくらい似合わなかったけど、と付け加えて、山田はふぅと息をつく。 「でも、いざ帰って来たらダニエルに悪いことしちゃったかなぁとか考えてサ。面倒になっちゃって、寝ようかと思ってたら松下君が来るし」 「それで機嫌が悪いんだな」 「悪いとわかっても帰らない松下君は、相変わらず我儘だよね」 「帰って欲しかったのか? 話を聞いて欲しそうに見えたんだが」 考えることはいつだって山程存在している。その一つで、立ち竦んでしまうことだってあったていいとは思うのだ。 「……うん」 罰が悪そうな顔をして、山田は頷いた。数時間前は、確かに元気だったはずなのにと思いながら、解決策を提案してみることにした。 「それなら、今からでも戻ればいいだろう?」 「それは僕の台詞だよ。そのまま佐藤さんと居るべきだったんじゃないの?」 「いや、それは」 「こんなところで、僕に八つ当たりされてる場合じゃないと思うよ」 僕の否定を遮るように山田が言う。 そんな苦笑を浮かべて欲しくないなと思いながら、八つ当たりとは何のことだろうと思った。 「八つ当たりだったのか?」 「松下君のそういうところには敵わないよ」 そういうところってどういうところだ。全く理解できなかった。 山田の伸ばした指先に眉間をつつかれる。 いつもみたいに怒る気にはなれなかった。弱っている人間を叩くなんてことは、僕は絶対にしたくはない。 「なんだ?」 「八つ当たりしてごめんね」 謝られる覚えがない。佐藤といい山田といい、どうしてそんなことを言うのだろう。だからといって、否定するのもおかしい気がした。 確かに山田の言う通り、こんなところでじっとしているのは間違っている。 「その花火大会は、いつ花火が上がるんだ?」 「あれ? 松下君、興味が湧いたの?」 「いいから答えろ」 「そうだね。今が八時半ぐらいだから、三十分後ぐらいかな」 この辺りの周辺地図を思い浮かべて、僕は乗ってきた箒の柄を握った。 「行くぞ」 「えっ?」 呆然とする山田の手を問答無用で掴み、箒に跨る。 「待って、もしかして!」 「もしかしても何もあるか。悪い事したんだってわかってるなら、僕に謝るよりそのダニエルに謝るべきだろ」 二人乗りをするのは初めてだが、どうやら大丈夫そうだ。速度は僅かに落ちたが、ふわりと浮きあがった箒はちゃんと前に進んだ。 「ええー。ダニエルに謝るのは嫌だよ」 さすがに普段から悪魔に乗っているらしいだけあって、山田は視界が高くなっても驚いた様子はないようだ。 「そういうとこは頑固なんだな」 「佐藤さんの前の松下君に比べればマシだよ」 「あいつが煩いのが悪い」 口ではそう言いながら、本当にそうだろうかと思っている自分も確かに居た。 天気は昼間と変わらず快晴のようで、光る星が届く距離で煌めいている。 それでも年が経つごとに徐々に見える数が減っているのが悲しかった。存在はしているのに、確かに見えていたものが見えなくなるのはどこか切ない。 「あのさ。松下君」 しばらく黙り込んでいた山田が、ふいに口を開く。 「佐藤さん、もう松下君にあんなこと言わないと思うよ」 あんなことと言うのは、昼間に相談したことだろう。 「別に何か変わったことはしてないのにか?」 「それは松下君が気づいてないだけだよ」 どこか楽しげにも聞こえる声に、さっきまでは落ち込んでいた様子だったのにと思ったが、今の方がずっといいと思ったから何も言わずにおいた。 「そうやって佐藤さんが笑ったなら、松下君の気持ちが通じたってことだよ」 そうだろうか。思い返しても心当りが無くて、疑問しか浮かばない。 目的地らしきところが見えたので、箒をゆっくりと下ろす。さすがにごった返す人混みの中央ではなく、僅かに離れた林側だ。 箒から飛び降りた山田が僕を見る。 「ありがとう。松下君」 「気にするな」 僕には足りない物を山田や埋れ木は持っていて、それが何かというのを表現することはできないけれど、一緒に居ると荒れていた気持ちが緩やかになるのは確かだと思った。 さて、帰るか。 箒を空に向けたところで、ふいに名前を呼ばれた。 「またね。松下君」 振り返るとぶんぶんと手を振る山田が目に入って、答える代わりに上空を一度だけ旋回した。 頬を撫で風が僅かに冷気を帯びるのを感じながら、思わず振り返る。 ごった返す人波が一点に集まり出すのを見て、そろそろメインの花火が上がる頃だろうなと思った。楽しそうに談笑するざわめきが耳に届くと安心する。 まだ、世界は手遅れじゃない。きっと。 祭りの人だかりは金持ちも貧乏も関係ない。それよりも花火を楽しむことが最優先なのだ。 僕のところからでも見えるだろうかと、疑問が浮かぶ。 方向的には大丈夫そうだ。乗っていた箒の速度を上げる。 佐藤にもう一杯珈琲を入れてもらって、久々に花火でも見ようかと思った。 果たして、あの東大卒のエリート男は花火をちゃんと見た事があるのだろうかと頭をよぎらせる。昔の彼のままなら、あんなくだらないものと吐き捨てる姿しか想像できない。 けれども今なら違うはずだ。確信めいた気持ちでそう思う。 一瞬だけ大きく光って、振り注ぐような光の色。花火はきっと正しい火薬の使い方だ。 銃でも爆弾でもなく、誰かを傷つけるためでもなく、誰かを楽しませて喜ばせるためにそれは存在するべきだ。 「僕はそういう世界がいい」 夜風にさらわれた独り言が、誰かに届けばいいと思った。 END [2011/05/09]
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