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(off本の「ドーナツの向こう側に見える世界」の後の話) バックミラー越しに後部座席を見ながら、これは掃除が大変かもしれないなと佐藤は思った。 長方形の鏡に映るのはふっくらとしたボーダーシャツの少年。有名ドーナツ店のペーパーナプキン越しにドーナツを握って、もごもごと口を動かしている。 開いた携帯電話には着信もメールもない。時刻は夕方の16時を示していた。 窓はすべて開け放っているもののどこか蒸し暑い太平洋電機の地下駐車場。後ろの少年と二人きりな理由は、待ち人の要望だからである。 「佐藤さんは」 唐突に背後から声が響いた。背もたれに凭れかっていた身体を捻って、後部座席を見た。 「松下くんのことが好きなのだね」 待ち人である人物の名前と予想外の言葉。今度は新商品の生姜ドーナツを手にした少年は、佐藤の姿をその丸い両目に映した。 「単刀直入だね。山田くん」 返答に困って正直な感想を述べれば、横に置いたアナログテレビから腕をどかした山田が瞬きをした。 「そうかね?」 「そうですよ」 とぼけたような質問ではあったが彼なりの思考の流れがあったのだろう。そういう意味では松下とよく似ている気がした。 「好きというわけではなかったのかい?」 その問いには簡単に答えるわけにはいかなかった。運転席のボタンで全部の窓を閉じて、クーラーに切り替える。 初対面の時は敬語だった山田がすっかり普段口調なのは松下の指示だったせいもあるが、それ以上に彼が話しやすくするためなのだろう。どこかしら警戒されていたようだが、今ではこんな突っ込んだ質問までしてくるようになっていた。 ネクタイを緩めて締め直す。深呼吸で再び振り返った。 「好きですよ」 短く答えると僅かに山田の瞳孔が開いた。残っていたドーナツを口に放り込んだ彼が僅かに身を乗り出したことに驚く。 「佐藤さんの前の松下くんはどんな感じかね?」 てっきり好きの感情が恋愛なのかどうかを聞かれると思っていただけに、さらに予想を裏切る質問をされて無意識に肩の力が抜けてしまっていた。 「どんな感じ、というか――さっきの通りですよ」 「さっき?」 視線を斜め上に向けて反復した山田を見ながら、佐藤は三十分前の出来事を思い出していた。 一か月に最低でも二度は顔を合わせるというのが松下親子の習慣の一つになっていて、今日はその日だった。 佐藤の隣に座る松下は不機嫌そうな顔ではあったが、実際に機嫌が悪いわけではなくそれがいつもの状態だ。降り出した雨が窓ガラスの向こうに暗さを生んで、特に意味もなくガラスに指を走らせていた松下が鋭い声で停止を命じた。 あの雨の中、後部座席に傘を取って口角を持ち上げた横顔を見た時、間違いなく山田だろうなという予測は正解だった。 いつからそうだったのか、決定的な瞬間がどこにあったのか、それなりの時間を共にしているはずの佐藤にはわからなかった。ただ、松下が山田を好きだという事実は確認せずともわかってしまったというだけである。 「松下くんは佐藤さんに対して甘いのだね」 「そんな瞬間ありましたっけ?」 相合い傘で山田を車まで連れてきた松下は機嫌よさげではあったが、佐藤に対する態度はいつも通りだった。そもそも、ほとんど山田と話をしていたような気がする。 「横目で佐藤さんのことを見ていたのだよ」 「そうなんですか?」 いやいやまさか。心の中でつぶやいた。 話をしている途中で一度も視線は交錯していないはずだ。確かにずっと松下を見ていたわけではないが、回数としては多かったように思う。 「同じくらい佐藤さんも見てはいたのだがね。わざとなのかそうじゃないのか……合わないものだね」箱から取り出したドーナツをそのまま齧ろうとして、山田はふと手を止めた。何を思ったのか半分に割って残りを中に置く。「双方向だというのに一方通行に見えてしまうのだからもどかしく思ってしまったよ」 「それなら、やはり僕とメシアは合わないのだと思いますよ」口に銜えたドーナツを齧り、山田が手を離した。その眉尻が僅かに下がったのを見て、佐藤は自嘲でも苦笑でもなく笑ってみせる。「それでいいんだと思います。お互いそれもどこかで納得しているところがありますから」 「そうかね?」 山田が気にしているのは松下のことだろう。二人には三年間の空白がある。想いが伝えられないもどかしさを知っているからこそ、伝わらないこともまた気になるのかもしれなかった。 彼がどこまで知っているかはわからないが、松下が撃たれる原因を作ったのは佐藤だ。その後にどう気持ちが変化して今に至っていようと起こってしまったことは変えられない。変えてはいけない。最期まで持っていくべきものだ。 「ええ」身を乗り出してその柔らかそうな髪をそっと撫でた。「今は山田くんがいますし」 「それで佐藤さんは満足なのかい?」 口調は緩やかなのにその意味は鋭い。見透かされるぞといつか松下が言っていたことを思い出した。返事を躊躇したのは、本音や建前の話ではなく、佐藤がその答えを見つけきれていないからである。 手の下で山田は瞼を伏せた。 「僕には千年王国は今もよくわかっていないのだけどね。みんなが幸せになって欲しいというのはいい考えだと思うのだよ。それには佐藤さんも含まれているではないのかね?」 完全理解などしなくても近づくことはできる。受け入れられるかどうかが重大なのだ。 撫でていた手を離してその髪を整えると、見上げた山田の瞳が僅かに揺らぐ。 今、自分はどんな顔をしているのだろうか。 「山田くんはドーナツが好きなんでしょう?」肯定を示す頷き。「見ているだけでも満足できることはありますよ」 もちろん、自分が作り出したものであれば尚更いいのかもしれない。 「――佐藤さんは謙虚なのだね」 「ははは。僕はメシアを笑わせるよりも怒らせることが得意なだけですよ」 言っておきながら、まさしくその通りでハンドルに頭を乗せた。 後ろで山田が息を吸ったようだが、窓ガラスをノックする音がそれに重なる。慌てて身体を上げた。 「松下くん」 待ち人を前に山田がその名を呼んで、松下は彼を一瞥して片手をあげた。すぐに佐藤に笑いかける。いつからいたのかわからないが、その額に青筋が浮かんでいるのが見えて苦笑した。 鍵を閉めてはいなかったのだが、気を遣われたのかもしれない。 「話は終わったか?」 その声はとても冷静で、それがよけいに怖い。 「終わりました終わりました」 だから睨まないでください。目を逸らしながら、突き刺さる視線からの回避する機械を太平洋電機は開発すべきだと切実に願った。 「それならいい」 座席に凭れた松下が窓の外に視線を向けたので、ご要望通り窓を開ける。腕を乗せた彼の後ろから救世主が身を乗り出す。 「おかえり。松下くん」 その声に松下は少し驚いた顔をして、それからほとんど無意識ともいえる笑みを浮かべた。 「ただいま。佐藤に変なことされなかったか? こいつショタコンだから気をつけろよ」 「ショタコンだなんて! 僕が変態みたいじゃないですか!」 小さい男の子だったら誰でもいいみたいに言われると節操なしのようではないか。 「変態だろ」 断定的な言いに真っ先に思いついた切り返しが口にしてはいけないものだと気づいて黙殺。佐藤が子どもだったなら地団太を踏んでいるだろう。 今だってそういう衝動がないわけではないと言えたらどんなに楽か。いや、楽ではないか。 「松下くんはショタコンではないのかね?」 そういえばと思ったのは松下も同じだったようだ。その顔に怒りとは別の赤が浮かぶ。 「そうですよ! 人のこと言えるんですか! メシアだって」 「あー! あー! うるせぇ! 早く車だせ、この家ダニがっっ!」 車の中でなかったら足蹴りされていただろう。ダッシュボードの下で松下が膝をぶつけたのが見えた。 思わず吹き出せば射殺す勢いで睨まれてしまったので、表情を引き締める。 「山田、危ないから席に戻れ」 「松下くんは可愛いね」 一言だけ告げると山田は大人しく席に戻った。大人しくなれないのは助手席の松下だけで、口を何度か開閉させた後、窓に乗せた腕に突っ伏した。 そんな彼に気づかれないように佐藤は笑って、この感情は妥協よりもずっと前向きなものではないかと思う。 「僕も同感です」 「お前は黙れ」 「不平等です!」 一瞬だけ冷静さを取り戻した松下の声に突っ込めば、早く出せとばかりに強く肩を叩かれた。 END [2012/07/09]
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