(千年王国版)
天気予報では雪マークが出ているような地域において、今日の天気も雪である。一部では注意報や警戒を呼び掛けられているぐらいだ。
息を荒らげながら、佐藤は持っていたシャベルの取っ手に顎を乗せた。
ここまで精神力と体力を奪われたのは、久しぶりだと思う。
何度か除雪したことはあるが、これはそれとはまた別の作業だった。
「一言、いいですか?」
佐藤はようやくそれを口にして、目の前で服についた雪を払う松下を見た。
「メシヤは馬鹿なんですか?」
鼻を真っ赤にしながら視線を向けてくる垂れ目を見つめて、ため息交じりに佐藤は口にした。
三十分ほど前、ふくろう女にメシヤが大変だと言われた時は誰かに撃たれたのかとも思ったが、この八歳児は何があったのか、雪の下に埋まっていたのだ。
最初は嘘だと思った。しかし、ふくろう女は冗談を言うにしてもメシヤをネタにはしないはずだ。彼女(というと人のようだがその名の通りフクロウの姿をしている)はメシヤを命の恩人だと言っているし、その言葉に嘘はないだろう。蛙男ほどではないが、盲心的だ。
白い粉の時には、さすがにつっこみたかったんですけどね。
そんな昔の出来事が頭をよぎる。
シャベル片手に雪を掘り下げると、見慣れた青白い手が現れて佐藤は一瞬だけ、それに触れるのを躊躇した。
よぎった過去の罪を振り切るように握った手は冷たく、けれどもすぐにその指先に力が籠って安心のだ。
そうして、雪から出てきた松下と対面を果たして今に至るわけだが、彼は何事もなかったような顔をしている。
正直、拍子抜けだった。下手すると死んでいたかもしれないと言った内容は口にしたから、文句をいくつか返したが彼は聞き流しているように見える。今も視線だけは向けているのだがそれだけだ。
「うるさいなぁ」
「助けてもらっておいてそれですか」
更に言い返そうとも思ったが、松下がぶるりと身震いしたのを見て、先に身体が動いていた。
持っていたシャベルを置き、上着を脱ぐ。それだけで松下の体躯を殆ど包めてしまうことに、改めて彼は子どもなのだと思った。絡んだ視線の向こう、その瞳には佐藤の姿が映っている。
「風邪をひいたらどうするん……」
最後まで言えなかった。不意に首の辺りに冷気に目を見開く。
飛び上がりそうなのをどうにか堪えたのは、それが伸ばされた松下の手だと理解したからだ。
気づけば、二つの腕が首の後ろに回されていた。肩口に静かに移動したその小さな頭部を見ながら、二、三度ほど瞬き。
何が起こっているのかは見ての通りだ。けれどもそれは、松下らしくない行動である。
「……大丈夫だ」
耳元で聞いたのは、とてつもなく小さな声。
佐藤の口から無意識に息が洩れる。込み上げてきた感情が何かはわからなかった。
ただ、抱き締めなければならないと思って、いや、抱きしめたいと思ったのかもしれない。どちらにしろ、既に動いていた。
そこで初めて、松下が僅かに震えていたことを知る。
この人は――。
「失礼します」
短く告げて抱きしめていた手を移動させ、抱え上げた。
いつもなら暴れるはずの松下はされるがままになっていて、それに眉を顰める。
気づいたら動かなくなってたとか、やめてくださいよ。
自然と触れた手に力を込めていた。
「ちょっと! 私のこと無視して何してんのよ」
それは頭上から聞こえた。顔を上げる前に頭部に痛みを感じて、佐藤は顔を顰める。
「痛っ! ふくろう女さん? つ、爪を立てるのはやめてくださいよっ!」
「うるさいわね! 誰も見てないと思ったら大間違いよっ!」
ヒステリックな喚きに合わせて、バサバサと音がなる。声は女性そのものだが、彼女はフクロウなのだから当然のことだ。
先程からずっと居ただろうが、存在をすっかり忘れていたのは事実だった。
それぐらい松下のことが気になっていたし、助け出した後もこんな状態で思い出す暇もなかった。
「そんなに怒られるようなことしてないでしょう!?」
「してるわよ! 気安くメシヤに触らないで頂戴!」
翼の音に混じって舞った茶色い羽が、佐藤の頬を撫でる。それはふわりと松下の上に落ちた。
「あのですね。私は」
「わかってるわよ! 人間は寒さに弱いっ! 私はフクロウだから羽毛の分マシだって言いたいんでしょうっ! ええ! そうよ! だから、なによ! 私が人間の身体だったらメシヤを抱きしめて差し上げられたのにっ!」
言葉の呼吸に合わせ、ふくろう女が上下に動く。それはただ羽ばたいているのではなく、佐藤の頭めがけて攻撃しているのだから問題だ。
「いや、だから、」
本来ならば両手で抱えて頭を守りたいところだが、そうもいかない。
「あいつが蛙じゃなかったら、あんたなんて呼ばなかったんだからねっ! 忘れないで!」
最後に思い切り頭髪を何本か引きちぎられたかと思うと、ふくろう女は大きく旋回して飛び去ってしまった。
血が出てたらどうしようかとも思ったが、それを確認するにはやはり手を離さねばならないので、後回しにすることにした。
「気に食わないのはわかりますけどね」
女性は執念深いらしいから、ふくろう女の言いたいのは例の裏切りについてだろう。
逆の立場だったとしたら、佐藤も自分よりは蛙男を選ぶはずだ。
そこからよけいな考えに飛躍しかけたが、僅かに松下が動いたので意識をそちらに向く。
そこで、最優先すべきことを思い出して、佐藤は深呼吸する。
「帰りましょうか」
誰でもない腕の中の少年にそう口にして、佐藤は足を踏み出した。
※ 「それで、結局は佐藤が来たのか?」
渡されたカップを手に、松下は蛙男を見上げた。
二人はこたつで向かい合わせに座っている。佐藤は松下と入れ違う形で風呂に向かったので、この場には居ない。
「そうです! びっくりしましたよ! メシヤが雪に埋まったという話を聞いた時には!」
「僕も驚いた」
それが紛れもない松下の本心だ。思い返してみれば、ぼんやりと何かを考えていたというのはあったのだが、それがなんだったのかが抜け落ちている。
誰かに助け出されたことも知っていたのだが、正直なところ誰なのかわからなかった。耳鳴りが鳴り響いて声は聞きとれないし、視界はどこか薄ぼんやりとしていたのである。
それでも、そうだな。
知っている匂いがした。それで十分だった。
そういう相手は松下にとって限られていた。それで蛙男が違うというのなら、佐藤しかいない。
「危ないことはおやめください。少なくともお一人では」
湯気の向こうで眉を下げる蛙男に、そうだなと短く答えた。
けど、本気で危ないなら一人でやらせてもらう。
そうでなければ駄目だと思った。失うのはできるだけ避けたいし、何よりも自分が居なくなったぐらいで、終わって欲しくない。
問題は佐藤だ。
自分が居なくなったら、彼はどうするのか。それだけが想像できなかった。
蛙男は意志を継いでくれるだろう。確実に。それに引きずられる佐藤というのが理想的だ。
「メシヤ」
声をかけられて、松下はゆっくりと顔を上げた。
僅かに微笑む蛙男の表情に、違和感を覚える。
「どうした?」
「いえ、ふくろう女の気持ちもわかるなと思っただけです」
何の話なのかわからなかった。
意識がはっきりした時には、隣に蛙男が居た。そういえば、その横で心配そうにふくろう女が見ていたのを思い出す。
けれども無事かどうかを確認されただけで、他には何も言われていなかった。
「メシヤにとって、佐藤は佐藤でしょう?」
何を当たり前のことを言っているのだ、とは言えなかった。
その言葉に含まれている意味に気づいて、松下はカップを置く。
「そういうのは、困るか?」
「いいえ。ふくろう女は違うようですけれども、それがメシヤの意志だというのなら」
そういうことではない。もっと個人的な意味で問いかけたつもりだったのだが、それを言っても堂々巡りだと松下は口を閉じた。
「佐藤にはできないことができると考えれば、あまり気にならないと思うんですがね」
「時間の話か?」
人と彼らでは違うものと言われて、真っ先に浮かんだものを口にする。
「そうですね」
一つ頷いて、蛙男も自分の分の珈琲を飲んだ。
嘘はついていないだろうが、それが一番の理由ではないだろうなと思う。
「僕は贔屓しているつもりはないぞ」
「そういう意味ではありませんよ!」
非難してしまったと受け取ったのか、蛙男が慌てて身を乗り出してきた。
「ただ」
言いかけて、彼は喉を鳴らした。素早く元の位置に戻る。
口を結ぶ蛙男の様子を見るに、言い難いことなのだろうと思った。
「無理して言うぐらいなら、言わなくても構わない」
「――単純に羨ましいと口にしてしまうと、負けを認めたような気分になりますね」
やや早口に蛙男は言うと、持っていたカップを一気に飲み干した。
「羨ましいか?」
彼らに佐藤がどう映っているのかはわからないが、羨ましいと言われるほどのものを持っているかと言われれば疑問だった。
「人間であるということもそうですが、それよりも」
言葉を止めた蛙男の視線が、松下の背後で止まる。
松下が振り返った先には、よほど気持ちがよかったのか顔を綻ばせた佐藤が歩いてくるのが見えた。
「おい、もう一回、浴槽に沈んで来い」
「えっ、なんですかいきなり?」
真後ろに立って不思議そうに顔をする佐藤を睨みつけながら、タイミングが悪いと言いかけたのをのみこんだ。
「黙って出てけ。一時間後なら許す」
「あのメシヤ、説明を求めてるんですが?」
「日本語を忘れたか? この家ダニめ」
「だから、家ダニじゃ――もう回復したんですか?」
いつものやり取りをしようとして、佐藤は何かに気づいたらしい。そう口にすると、屈みこんで松下の顔を覗きこんだ。
「回復も何も弱ってもいないだろ」
「そうですね」
頷いて身体を離した佐藤は、ふうと息をついて斜め横に座った。
「そうでなくては困ります」
ふっと伏せた目に何が映ったのか、松下にはわからない。
ただ、それがろくでもないことだけはわかった。それと同時に動いた蛙男の拳が佐藤の頭を直撃するのが視界に映る。
相変わらず、先に動いてくれるやつだ。
「った! 何で殴られるんですか!」
「殴りたくなったからだ。お前と言うやつは、本当にうじうじと見てられん」
拳をさすりながら、蛙男が鼻息を荒くする。
佐藤は頭をさすって、その手に何もついてないのを確認すると肩を撫で下ろした。
「それを蛙男さんに怒られる理由が全くわからないんですけど」
佐藤は不満げ言うと蛙男を見る。
答えなんてとても単純だ。蛙男は蛙男なりに佐藤を心配しているだけの話である。
「なら、誰に怒られるなら満足なんだ?」
一瞬の沈黙。徐々に見開く佐藤の瞳を横から眺めて、松下は大きく息をついた。
やっぱり、こいつはどうしようもないな。
「おい、佐藤」
「なんですか?」
追撃を恐れたのかちらちらと蛙男の様子を窺いながら、佐藤が視線を向ける。
「今日は手間をかけたな」
「えっ?」
「耳がないのか?」
「聞こえてます、聞こえてますよ!」
数度ほど頷く佐藤を見ていると、本当にわかっているのか不安になる。
「それだけだ」
「だから、ちゃんと説明を――」
「来てくれたのが、お前でよかった」
佐藤の言葉の続きに被せるようにして口にした後、彼は動きを止めた。
次に何かを言おうとして強引に唇を結ぶと、松下から視線を逸らす。そのまま、落下するように突っ伏した。
「いい音がしましたね」
「そうだな。ちゃんと重さがあって何よりだ」
蛙男の呆れ顔を見ながら、松下はカップの中の珈琲を回した。
「煙が出ているますよ」
「そうだな。冬だから沸騰するぐらいがいいんじゃないのか」
何を思ったのか耳まで真っ赤になっている佐藤を見ながら、本気で彼の将来が心配になってしまった。
「どこか、羨ましいんだ?」
しばらくは、佐藤の思考回路は動かないだろうと思って、蛙男を見る。
彼は、それはもうびっくりするほどわかりやすい愛想笑いを浮かべた。
「こういうところがですよ」
松下にはやはりわからないことだった。 ただ、ため息一つで頬杖をついた蛙男が佐藤を見る目には、羨望や憧れとは全く別のものが宿っている気がしたから、それでいいのだということにしていておいた。
END
[2011/01/18]
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