「これでお別れです」

 電子音のように淡々とした口調で、テレビ生物は口にした。
 聞き慣れた声はその内容に名残惜しさも何もなく、思わず意味を疑ってしまう。
 そういえばと、目の前の存在が生き物であることを思い出した。
 人も動物も恐らくは見えない何かも、存在がある以上はいずれ消えゆくものだ。

「そう」

 けれども、それじゃあ。なんて言っていいのだろうかと思う。
 僕には言えるのだろうかと思う。
 手の平の上で見上げるその無機質な目が虹色の明滅を繰り返していた。

「ぼっちゃんはどうしますか?」

 どちらを選びますか?

「私はこれから次の世界に向かいます。ブラウン管の無くなったテレビ以外に住める場所を探しに」

 進化するために。

 生き物は日々を生き、世界に対応するために形を変えていく。

「僕は」

 差し出された小さな手を見た。
 いつもは肩の上や隣にいるその小さな身体が、今は真正面で僕を見ている。

「……僕は」

 どこに行きたいのだろうと思った。
 わかっていたこの結末を考えたくなかった。それゆえに逃げていた。

 僕は誰かの笑う顔が好きで、その瞳が僕を見てくれることが、ありがとうと言ってくれることが嬉しかった。
 趣味ではあったけれど、それは生きるために必要な趣味だ。
 こうやってテレビに入るようになって、僕はそれだけを考えてきた。

「この手を取れば、僕はどうなるんだい?」

 伸ばそうとした手を握って、テレビ生物を見る。
 原色の『僕』がその小さな穴二つから僕を見つめていた。

「外には出られなくなります。本当の意味で、ぼっちゃんは『テレビくん』になるのです」

 テレビの中はとても楽しい。楽しいだけでもないけれど、現実と違ってチャンネルを回せる。
 嫌なら別の場所へ、楽しいならそのまま留まることができる。毎日、違った世界がそこには広がっている。

 現実はそう簡単にはいかない。

 童話でいう浦島太郎のような僕は、このテレビという世界で遊びすぎて、外にはたまにしか戻っていなかった。
 現実世界は僕を置き去りに、それでも変わらず針を回し、いつのまにかずっとずっと先へ進んでしまっている。

 アナログテレビが地上デジタル放送という形で変化することなど、あの頃の僕や彼らに想像などできただろうか。
 今ではテレビはブラウン管よりもずっと薄く、なんだったら持ち歩けるような世界になっている。

 僕の持ち歩くこの重さが無くなった世界。そしたら、僕は飛ばされないだろうか。

 居場所について考えた。
 人間である僕を知っている人はどれだけいるだろう。
 誰もきっと僕を覚えていないのかもしれない。
 彼も彼女もきっと大きくなって、子どもの頃なんて忘れてしまっているのかもしれない。
 変わらない僕を見たら、あの幽霊映画のように悲鳴をあげてしまうかもしれない。
 それはとてもつらいことだ。

 なら、いっそ、テレビになればいいのかな。

 現実なんて全部捨てて、この色が溢れる世界を泳げる限り進めばいいんじゃないだろうか。

「ぼっちゃん」

 テレビ生物が僕を呼ぶ。そういえば、一度だって、テレビ生物は僕をテレビくんだと呼ばなかったなぁ。

 アナログ終了のカウントダウン。

 急かされるのは得意じゃない。迷いはある。決めきれない理由がわからなかった。
 答えなんて簡単だ。だから、僕は今、此処にいるじゃないか。
 それでも後ろ髪を引かれるような気がするのはなぜだろう。

 テレビの外に出した手が、フローリングに触れる。
 伝わる温もりは冬には味わえない夏の温度。
 向こう側では蝉の声がするだろう。
 公園では楽しそうな子どもが虫とり網を持って駆け回っている。
 汗ばむような蒸し暑さで顔をしかめて、大人が汗を拭う。

 隣の部屋でもらった水はとてもおいしかったなと、唐突に思い出す。

 それはテレビの中では見つけられないものだ。どこにも売られていないもの。
 誰でもいいからと用意されたものではなく、僕に与えられたものだ。
 そのせいか、今まで飲んだもの中で一番、おいしかった。見えないものがそこにはあって、それがとても優しかったのだ。

 与えるのが楽だった。与えるだけで済む。
 何かを与えられた時に、僕はそれに対して反応しなければならない。その方法がわからないのだ。
 それに与えられた時に、どれくらい返せばいいのかわからないからちゃんと気持ちは伝えきれたのかがわからなかった。
 困っていない人を喜ばせるのは難しい。

 走馬灯のようによぎるいくつかの場面の後ろで、時間が迫る。
 テレビ生物が見ている。僕は俯いた。

 心臓の音が早くなっている。
 深呼吸する。

 選ぶのはとてもこわいことだ。

 テレビのチャンネルみたに、気に入らないからと戻ることはできない。
 流されるように今の場所にいた。
 僕はちゃんと決断したわけではない。楽な方に身を委ねたのだ。

「僕は」

 外側で何かが手に触れた。
「……あっ」
 それは確かに僕の手を握って、その感覚は遠い昔に経験したものだった。
 一度、僕は唇を結んだ。

 今、決めた。

 顔を上げる。テレビ生物と目を合わせる。いつかテレビに入った時を思い出した。

「僕は帰るよ」

 今度はその手をとらない。

「今までありがとう」

 テレビ生物がゆっくりと手を引いた。
 その目にノイズ。

「またテレビで会おう」

 テレビ生物が目を閉じて、世界がブルーに沈んだ。
 最後に頷いたテレビ生物は少しだけ笑ったように見えて、僕はそれに安心した。
 向こう側から誰かが僕を引き上げる。その手に身を任せていると、なんだか水から陸へあがる魚のような気分だ。
「これも進化なのかな?」
 ぽつりと小さくつぶやいて、少し笑った。


 僕はきっと魚にも人にもなりきれない。
 けれど、この中途半端さが僕らしさだ。

 ――テレビくんでも山田くんでも、好きな方で呼んでよ。

 それはチャンネルを回すように、気まぐれでいいんだ。


END


[2011/11/25]