(千年王国版)

 佐藤は誰にも気づかれないように喉を鳴らした。

 窓が風に揺らされて、カタカタと笑う。
 馬鹿にされているような気分ではあったが、それはとてつもなく正しいことのように思えた。

 どうしようもなく馬鹿だ。

 革命をしたいのなら、堂々と立って進むべきだというのを証明しているような相手に対して、背後からそっとナイフを立てるような真似をしている。
 この錆びついた武器で心臓を刺すことができればいいのにと願う。
 そんな度胸などない。だが、諦めようとして行き場のないそれを振りまわしても痛むだけだ。
 そして、それは恐らく、誰にも気づかれてはいないのかもしれない。

「革命ですよ」

 それは自分よりもずっと、彼に似合う言葉だ。だからこそ、脳内で再生された声は自分のものなのに彼の音がした。
 心地がいいのはそのせいで、知らず知らずに浮かぶ笑み。

 右耳の横で小さな呼吸。頬に触れるは糸のような髪。馴染みのある匂いに溺れながら、何から庇うわけでもなく自分よりも小さな生き物を覆う。
 曲げた膝には洗いたてのシーツ。張り詰めたどこまでも真っ白なそれに皺を刻むのは、生き物が通り過ぎたけもの道のようだ。
 ならば、佐藤の横で目を閉じるのは獣なのかもしれなかった。意識が閉じ込められている間は大人しいが、それが外に現れてしまえば牙を向く。

 それで喰われてしまうなら、本望だ。

 最期を迎えるならそれぐらい壮絶でありたいと願うのも一種の償いであると、表向きでは言えはしないだろうか。
 この少年の傍らに立つ忠実な騎士である蛙には、そう受け取って欲しいと思った。
 押さえつけた額は、ベッドの柔らかさに沈みながら緩やかな熱を持つ。
 衣擦れがしたのはその直後だ。

「この夢想家め」

 寝起き特有の掠れとともに吐き出された言葉は、気だるさと呆れを混ぜて佐藤の鼓膜に溶ける。
 離れなければ、という自己防衛本能を堪えるべく、押し付ける額に力を込めた。

「夢を見るというのは、未来への希望ですよ」

「お前が追いかけているのはただの蜃気楼だ。本気で希望にしたければ、夢を現実に引っ張りだせばいい」
 息を吸って顔をあげれば、先程まで檻にいた肉食獣の眼光。攻撃よりも挑戦的にも見えるその視線に口の中が渇く。
 勝てる勝負ではない。ただ、それは極めて数学的な思考で導きだされる答えだ。

「それでは、あなたを引っ張り出すのは可能ですか?」
 松下一郎。少年の名前を声にすることができなかった。かわりに舌の上で転がして、飲み込む。

「僕から何を引き出すつもりだ?」

「心臓とか、どうですか?」
 指で触れられない代わりに、目を向けた。
 警戒あるいは虎のような色を纏う衣服の向こう側にある臓器。

「心じゃないのか?」

 それが例えだとすればと言いたげに口にして、松下が目を細める。
「えっ、いいんですか?」
「いいわけないだろ。この家ダニが」
 一瞬だけ期待に胸が躍ったが、真顔で否定された。
 わかっていても、実際に言われてしまうと落ち込んでしまう。

「心臓か。単体では何の意味もないそれを望むなんて、頭がおかしいんじゃないのか?」

 起き上がりもせずに、松下はそのまま腕を組んだ。
 佐藤は彼を組み敷いたわけではない。本当に上から覆っているだけだ。衣服越しですら触れていない。

「臓器には記憶が宿る説もありますよ」
「僕自身から離れた時点で、かつて僕のものだったというだけだ」
「それでも十分ですよ」

「命を丸ごと奪っといてそう言うのか?」
「叶わないもの追いかけるというのが苦手なんですよ」
 それを言ってしまえば、松下という少年は得意とは言わないまでも佐藤が苦手なものを実行しているといえた。
 確証もなければ、それこそ蜃気楼にも見える理想。ただ、それすらも彼の手にかかれば現実になってもおかしくはないのかもしれなかった。

 そんなことどっちだっていいのだ。本当は。
 欲しいのはその先の未来ではなく、彼自身だ。

「何もしていない人間がそれを口にするな」

 努力を放棄したくせにと松下はため息をつく。
「自分の限界ぐらい自分でわかりますよ」
 それは彼には絶対ない感情だろう。松下は限界を見ない。やれるだけやるだけだ。
 他では計算しようとも自分自身は勘定に入れない。

「わかってないから家ダニなんだよ。最初の数字を間違えた計算が、正解に辿りつけるわけがないだろう」

「決められた答えなんてありませんよ。この世には」
 どれを選び取り、どれを実行するか。そして、それが正解だったかどうかは、捨てた選択肢を見る事が叶わない人間には観測不能だ。

「そうだな。ただ、僕にはそれがわかる。そもそもこんな単純な答えに対して、間違え続けている僕やお前がおかしいだけだ」

「どういう意味ですか?」
「この現状を分析しながら互いの出方を窺っている時点で、間違えているということだ」
 それはつまり、考えるより先に動けということだろうか。
 緩やかに上下する松下の胸に視線を向けて、佐藤は再び喉を鳴らす。

「……心臓を引きずり出してもいいですか?」

「そうなった過程を説明しろ。この家ダニが」
「語るより先に行動しろと言ったではないですか?」
「殺される意味もわからない僕の気持ちはどうなる」
「……前回はわかったんですか?」
 忌々しい記憶は最大の罪。口にすると自然と表情が歪むが、松下には変化はない。

「わかるわけないだろ。予測はついたがな」

 そこで大きく息を吸う。長く吐かれた息の間で、松下は目を閉じた。
「それなら、今も変わらないじゃないですか」
「あの時と同じ感情でこの場に居るのなら、僕は黙ってされるがままだったよ」
 持ち上がる瞼が見せる瞳はやたら澄んでいて、一瞬だけ、自分が誰の前にいるのかわからなくなった。

「そんなこたあどうだっていいんだよ。振り返ったところで歴史は変わらない」

 どう足掻いても過去の罪は消えない。それを許されているか、まだ許されていないかだけの違い。それを思えば、昔はあんなにも許されたかったそれが、背負ったままでもいいような気がしていた。
 贖罪を理由に傍にいられるなら、なんて便利な口実だろう。そう考えることが既に罪深い。

「僕の心臓が欲しい理由はなんだ?」
「そこが空洞でないことを確認したいだけです」
 確かに彼は生きているが、生きているように見えているだけかもしれない。
 そもそもこの器は半分だけの動力で動いているのだ。心臓ももしかしたら、半分なのかもしれない。
 それ以上に、松下には感情があるのかどうかが気になっていた。広い意味ではなく、もっとずっと狭い意味で。

「仮に空洞だとしたら、欲しいものはそこにはないと落胆してくれるのか?」
 その指が第二ボタンを押した。
「落胆はしませんよ」
 その時は納得するのだろうか。絶望するのだろうか。
 先に目の前の松下一郎という存在が、本当に実在するのかを疑ってしまうかもしれない。
 これは佐藤の幻かもしれない。残された記憶の残り滓からさらに絞り取ろうとする行為。

「そうか。僕は落胆するな」

「なぜですか?」
「そこにあると信じているものがあるからさ」
 押さえていた指が離れる。僅かな隙間に空気が入ると、どこか物足りない気分になった。
「心臓とは別のものですか?」
「見えるものがすべてだと思うよ」
 垂れさがっていたネクタイが不意に引き寄せられる。
 驚いて見開いた表情をその瞳に映して、松下は小さく笑った。

「見えないものがないというなら、それは大間違いだ」

 鼻先触れ合う数センチで、囁くように口にする声はいつもよりも速度がゆっくりである。
 手繰り寄せられるように彼が手に巻きつけるネクタイを横目に、飲み込むものが無くなっていることに気づいた。

「革命を起こすんだろう? 佐藤」

 電気に触れたわけでもないのに、どこかが焼ける音がした。
 それに繋いでいた糸は灰になり、引き寄せられるまま唇を重ねる。

 ただ、それも一瞬、気づけば頬を殴られていた。バランスを崩して転がり落ちれば、床にしたたか頭をぶつける。

 痛みに呻きながら鼓膜が拾ったのは、松下の笑い声だった。
 起き上がりながら、ベッドの上で身体を折ったその少年を見れば、息絶え絶えな口から大きなため息が漏れる。
「まいったなぁ」
 片手で額を押さえながらつぶやかれたのは、彼らしくない響きをして。

「こんなに煩いもの、欲しけりゃやるよ」

 そう言う声はどこか泣いているような気がした。


END


[2011/09/19]