振り落ちる雪を眺めながら人通りの多い道を避けて歩いていると、見覚えのある影を見つけて足を止めた。 しゃがみこんでガラス越しに中を覗く姿は、欲しい玩具を眺める子どものようなのに昔を懐かしんでいる目をしている。そういうのは、自分たちの特徴かもしれない。 「今日は一人なのか、山田」 その頭上から名を呼べば、山田は顔を上げた。その髪に積もった雪が粉のように流れて落ちる。 「誰かと思えば、松下くんだ」 薄らぼんやりとした目は、どこか熱に浮かされた病人に思えて、反射的に額に手を乗せてしまった。 「風邪ひくぞ」 想像していたよりは熱くなかったので安心した。 注意ついでに言えば、山田はすり寄る猫のように目を細める。 「松下くんに心配されるなんて、僕も落ちたもんだね」 「……前言撤回だ。風邪でもひいてろ」 乗せていた手を離せば、その丸い瞳が動きを追う。 猫か、こいつは。 気まぐれで先が読めないという意味では、確かにそうだ。 山田が何を見ていたのかはわからないが、この建物が写真館であることは知っている。寂れた外装に、もとは白かったと思わる看板。変色した黄土色。 ショーウィンドウに飾られた写真は一昔前のものようだ。人気のないこの通りにくわえて昼間なのに電気が消えていることを考えれば、営業していると思うのは難しい。 「近くだと此処だけだったんだけどね」 時代の流れだねー。 「撮りたい写真でもあったのか?」 埃の被ったガラスを指でなぞる。その部分だけ向こう側を元より鮮明にさせた。 覗き見れば、立てかけられた写真はどれも笑顔。 きっとこの店の主人は優しい人だろう。そう思うと、笑顔だけで人を救えそうな友人が浮かぶ。 「うん」 やや間を置いて頷いた声は顔を膝に埋めているせいか、くぐもって聞こえた。 「仕方ないよね」 何があったのか落ち込んでいることだけは察して、ああ面倒だなという想いが頭よぎる。 そういえば、今は雪が降っていることに気づいて、空を睨んで顔をしかめた。 彼なら、埋れ木ならどうするだろうと思うのは、こういう状況に対して彼が向いているのを知っているからだ。 きっと慰めの言葉と、正答に近い行動を起こしてくれるだろう。 「カメラがあればいいのか?」 単純明快な回答を駄目もとで口にすれば、山田は首を振った。 「今はいいや」 立ち上がる素振りに半歩後ろに寄る。その後に山田の身体がぐらりと傾く。 驚きはしたものの固まることはなかったどうにか受け止めた腕の下、何度か瞬きをした彼は何を思ったか息を吐いて、よりによって全身の力を抜いた。 軽いというほど健康不良時ではない山田の全体重というのは、さすがに重いというかどうしてここで無駄な体力を消耗しなければならないのか。 「おい」 「なんか足が痺れちゃってさー」 「離すぞ」 山田の足が回復するより先に抱えた腕が痺れるのが早い。そのまま引き抜こうとすれば、そのまま見上げられた。 「そんな重いつもりはないんだけど?」 「十分、重いだろ」 「それ体重以外の意味もある?」 いっそ、手を離してしまおうかと思ったところで、そう言われれば離せるわけがないのを山田もわかっているはずだ。 「……山田」 「あっ、怒らないでよ」 「お前を抱えて飛べるのは、あの悪魔だけだろ?」 山田の冗談交じりの口調に被せれば、その表情が少しだけ明るくなったのがわかった。 「そうかもね」 一度だけ頷いて、両足に力を入れた山田が手を離れる。 冬特有の熱が奪われて行く感触は、あまりいいものではない。 くるりと一回転して身体を向けた山田が、不意に伸ばしてきた手に咄嗟に対応できなかった。 その人差し指が口角に触れて、上に引き上げられる。 「メフィストもそうだけど、どうしていつも仏頂面なのさ」 「こういうことされるからだろ」 その手首を掴んで、触れた指先を離す。山田は不思議そうな目をした。 「えっ。メフィストにはこんなことしないよ?」 「まさか、僕相手にだけじゃないだろうな」 それに頷いてもおかしくないのが山田真吾だ。 少なくとも埋れ木相手には、あまりこういうことをしない。 「ダニエルにもするよ。三本毛掴んだり、瞼掴んで引っ張ったりとか」 「やっていることがロクなもんじゃねえな」 瞼を引っ張るとか、過剰表現ではなさそうなところが一番恐ろしい。 「ダニエル相手だからいいんだよ。メフィストは――」 一度、山田は言葉を止めた。伏せた瞼の下で視線が横に流れる。 「ダニエルは基本的にされるがままだし、松下くんは肝心な時に振り払わないでいてくれるからやりやすいんだよ」 「メフィストも似たようなもんじゃないのか?」 そもそも振り払われたら山田のことだ、すぐに笛を吹くのが想像できる。 「わかっていて振り払うようなやつなんだよ。メフィストは」 「なら、甘えるなってことだろう?」 掴んでいた手を離せば、山田はどこか確かめるように手首に触れて、ため息を一つ。 「厳しいね。普段はいいんだけど、僕だってそれなりに傷つくこともあるんだよ」 「そう言っても仕返しはするんだろう?」 「もちろん」 「なら、それで満足じゃないのか?」 「それとこれとは別問題」 メフィストもダニエルも山田に振り回されているという意味では、同情してしまいそうだ。 ただ、それでも一緒にいるのならなんだかんだと許容しているということだ。 「特別、何かあったってわけじゃないんだけどさ」 両手を擦り合わせる山田の口から、白い息。 「撮ってしまえば、無くならないのかなとか思ったんだよ」 「普通のカメラでは魂は抜けないぞ」 仙人が筆と墨で魂を閉じ込めたことを思えばできないことではないのだろうが、山田の言っているのはそういうことだろう。 「知ってる。そうじゃなくて――いいや」 「変なところで区切るな」 「今となっては大したことじゃないよ。結論として、僕の周りの人が居なくなったり消えたりしなければいいんだ」 「難しい要求だな」 「だからこうして頼んでるんじゃないか」 「頼んでる様子なんて微塵もないぞ」 「手は合わせてるよ」 「寒いからだろ」 「寒いからだね」 罰が悪そうな様子もなく、山田は通常となんら変わりない口調で告げる。 「で、店は潰れてるし、今はカメラを必要としていない。これからどうするんだ?」 今まで聞いた話と現状の焦りのなさを見ると、暇を持て余していてもおかしくなさそうだ。 「松下くんと遊ぼうかなとお」 「帰るぞ」 「えー」 背後の声を無視して歩き出す。 「今日の天気は雨らしいからな。早く帰れ」 「天気とか関係あるの?」 「濡れると風邪ひくだろう?」 「そんな言葉より、一緒に遊んで欲しいな」 視線だけで振り返れば、落ちていた雪の塊を小突く山田の姿が目に入る。 「……子どもだな」 「甘えたい気分の時もあるよね」 「いつもだろ」 「いつもじゃないよ。松下くんはわかってないなあ」 「送ってやるからちょっと黙ってろ」 言い終わるより先に山田が隣に並んでいた。 一人で帰りたくなかったから座っていたというなら、簡単に解決できる。 違うだろうがな。 「山田」 先程の言葉を気にしているのか、山田が視線だけ向けてくる。 「仮に居なくなったり、消えたりしても」 よぎるのは、忠実な蛙だったり、煩わしい人間の姿だったり、父親だったり。 「僕は止まるわけにはいかない」 いくつかの犠牲を払った後で、やっぱやめたなんて簡単に言える状況ではない。 「何言ってるの? 僕が止めるよ」 沈黙を打ち破る言葉は、鋭さが宿った視線ごと向けられた。 「悲しむ時間ぐらい、僕が稼いでみせるよ」 「……むちゃくちゃだな」 「松下くんが自分の痛みに鈍感だからだよ」 「お前に言われるのもな」 「僕はわかりにくいだけだよ」 「それを伝える気もないくせによく言う」 「それもそうだね」 あっさり引き下がったと思えば、頬に人差し指を押し付けられた。 「お前な――」 「それでも気づいてくれる誰かさんたちがいるから、立っていられるんだよ」 しゃがんでいたくせにと揚げ足を取るようなことはしないでおく。 「松下くんは僕らが気づいていることすら気づかないし、気づかない顔するから誰かが止めないと」 「それと頬をぐりぐりするのに関係あるのか?」 「ないよ」 躊躇なくその指を払えば、ちぇというつぶやき。 「止めるなら突き進むまでだが、お前には先に止めるべき相手がいるんじゃないのか?」 できれば、あまり対決という展開にはしたくないのだが、その時はそれも仕方ない。 「ダニエルなら、松下くんよりずっと楽に止められるよ」 払われた手を開いたり、閉じたりしながら、山田が言う。 「すごい自信だな」 「自分のことはよくわかってるだけだよ」 「あまり似ているようには思えないがな」 「似てるよ? 自分勝手なとことか」 「ああ」 数えるほどしか会ってないが、それを言われると納得してしまう。 「そんなわけで、迷惑承知で止めに行くから覚悟しててね」 「できるだけ、そうならないように気をつけるさ」 「そうしてくれると、僕も心配ごとが一つ減るよ」 くだらないこと気にするなと言いかけて、隣からスンと鼻を鳴らす音がした。 見れば、赤くなった鼻先を擦る山田が目に入って、喉元で止まった言葉をのんだ。 「お前も、心配させるようなことするなよ」 「うん」 頷きは大きかったのに蚊の泣くような声で「努力する」と付け加えたものだから、手放しで安心できない。 それでも縛りつけられるのは嫌だからな。 お互いに。 きっと、張り詰めた時に引き寄せるぐらいが丁度いい。 END [2011/11/10]
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