(ノストラ版)


 闇に閉じられた瞼を開いた先には、淡い白の明かり。
 緑の絨毯の上に無造作に置かれたテーブルには、レースの模様がついたテーブルクロスが横たわっている。
 花瓶に挿された花の色は白。花弁は蕾なのか閉じられていた。残念なことに名前が出てこない。
 指で触れようとして手を引っ込めた。閉じた花が開いた時、そこから何かが飛び出してくることがないとは言えないのである。

「妖精のスカートみたいだね」

 花の先にワンポイントの緑が服の模様を思わせた。
 独り言ではない。正面に座って、コース料理を頬張る悪魔に向けて口にした。
 食事の時ぐらい手袋とシルクハットをはずした方がいいのではないかと思ったが、不格好になるのが想像できたので指摘するのはやめておいた。

「ティンカーベルのことか?」

 白食器と銀のフォークが頭上の満月から舞い降りる光を弾く。
 星は天だけではなく、地にもある。
「ああ、似合いそう。ちょっと大人しすぎるような気もするけど」
 冷えた風がスープから漂っていた湯気を攫っていた。
 クルトンを掬い上げて口に含めば、すぐに崩れるほど柔らかくなっている。

「メフィストはティンカーベルみたいだね」

「やめろ。気持ちが悪い」
 大好きなじゃがいも料理を咀嚼していた笑顔が不快そうに歪む。
「信じれば空だって飛べるっていいと思うけど?」
「そうやって信じて、何度も裏切られた?」
「数えてないよ。そんなの」
 サラダをフォークで刺して口に運ぶ。水分が広がって、冷えてもおいしいのはありがたいなと思った。
「悪魔を完全に従わせることができるほど、僕も完璧なわけじゃないし」

「ソロモンの笛を乱用しておいてよく言えるな」

 パンを二つに割って、ジャムとバターをそれぞれ塗り込みながらメフィスとは思い出すことでもあったのか肩を落とした。
「そうしないと『しったこっちゃねぇや』で済ましちゃうじゃないか」
 テーブルに身を乗り出して、ジャムの瓶を手に取った。
 中の分量に比べて僅かに重い。

「しったこっちゃねぇや」

「吹くよ」
 木で出来たスプーンで赤い果実のが溶けたジャムを掬う。
「食事中は勘弁してくれ」
 咄嗟にワイングラスを握ったのは、いつかの赤ワインを飲みそこねたことを思い出したからだろうか。
 酔うというのは見たことしかなかった。子どもだから仕方がないと言われればそれまでだが、あのアルコールの中にどれほどの快楽と歓喜が詰まっているのか興味はある。

「ん? おれがティンカーベルなら、真吾はピーターパンってことか?」

「そうだね。永遠の子どもって僕らにはお似合いだと思うよ」
「お前らには確かにお似合いだな」
 誰のことか気づいたらしいメフィストがふんと鼻を鳴らした。

「ウェンディはミカエルかな?」

「捲れないスカートの話か?」
「メフィスとのえっちー」
「真吾には言われたくねぇな」
 一足先に食べ終えたメフィストがナプキンで口を拭う。

「もう行くの?」

「用は済んだからな」
 椅子から立ち上がったメフィストが上から食器をなぞるように手を動かすと、それまで置いてあった食器類やナプキンが跡形もなく消えてしまった。

「そうだね」

 ソロモンの笛と理由が揃わなければ、メフィストが留まることはない。
 椅子を戻す悪魔のマントが揺れる。
 横を通り過ぎようとしたその手を咄嗟に掴めば、シルクハットの下にあるつりあがった目と視線が合った。
「ここから先は別だってわかってるんだろ?」
「ちょっとした悪あがきだよ」

「常に悪あがきじゃねぇか」

 それもそうだと納得してしまった。
「このままだと夜が明けちまうからな」
「ついでに季節も変わればいいのにね」

「流れ星にでも願ったらどうだ?」

 空いた左手の指をメフィストが鳴らす。
 留まっていた星たちが驚いたように走り出した。

「離せよ」

 払われるかわりにやたら優しい声が鼓膜を震わせる。
 その指先が手の甲を軽く撫でた。

「……うん」

 もっと駄々を捏ねてしまうだろうかと思ったが、想像より簡単に手を離せた。
 掴まれた服を整えるメフィストはしばらく何かを考え、その手を山田の額の上に乗せる。

「なに?」

 手のひら越しに落ちた口づけ。手袋の白が眼前を舞った。
 さよならもまたねも一切なく、一陣の風。振り返ってみれば、影が溶けるほどの闇。
 目を凝らす意味も見出せず、撫でられた手の甲を見た。
 その感触に白い残像が見えた気がして指で辿ると、肌に馴染むように消えてしまった。静かに瞼を閉じて、そっと唇をあてる。

 再び目を開けば、隣に影が一つ。
「久しぶり」
 どう声をかけようか迷う軍服姿の半身を見た。

「久しぶり、君は変わらないな」

「ダニエルも変わらないよ」
 それまで緊張していたのか、彼が肩から力を抜いた。
 残っていたパンの半分を差し出せば、戸惑いつつも受け取ってくれる。
 パンを咀嚼して口を拭う。軽く身体を伸ばすと少し軽くなった気がした。

「デザートまで食べられなかったのが残念だったよ」

「まだ夜明けには時間がある。これからだろう?」
 ダニエルは一歩下がると芝居がかった動作で手を差し出す。
「エスコートしてくれるってこと?」
「無理強いはしないがね」

「それならミカエルがよかったなぁ」

「我儘も健在か」
 肩を竦めたダニエルが手を引っ込める前に手を重ねた。
 冷えた温度が雪を思い出させる。

「任せるよ」

 はにかんだ表情に満足して誘導されるまま立ち上がれば、ずっと座っていたせいか目が眩んだ。
「大丈夫かい?」
「平気だよ」
 眩暈は流星群に似ている。
 光がいくつも眼前を通過していく光景は幻想的で、心を惑わせる。

「結局、ちゃんと笑えなかったなぁ」

「君はよくやってたよ」
 顔を上げる。握られた手を少し強めて、ダニエルが笑った。

「君に言われた言葉だ。僕もそれを贈るよ」

「うわぁ、思い出しちゃった。恥ずかしい」
 言われるまですっかり忘れていた。
 きっと冷静ではなかったからだろうと思うが、今となっては思い返す余裕がある分、他にもいくつかそんな言葉を放ったような気がした。
「僕としては嬉しかったんだがね」
「言う側にならないとわからないよ、って、恥ずかしくないの?」

「言えなくなる前に口にしとかないといけないだろう?」

 違うかね、と首を傾げるダニエルに目を細める。
 地平線から現れた光が夜を壊し始めるのを視界の端に捉えて、深く息を吸った。

「それなら一つだけ」

「なんだね?」
 夜が明けて始まる朝は全く違うものだと知っていたからこそ、強く手を握り締める。

「また会おうね」

 どこでも、どんな形だとしても構わないから。
 ダニエルが手を伸ばして、前髪をかきあげた。柔らかい感触にこみ上げるものがあって、口を結ぶ。

「幸運を祈るよ」
「君もね」

 表情を見なくてもきっと同じ顔をしているとわかった。
 繋いだ手でどこまでいけるのかわからないけれども、今はただ目を閉じよう。
 新しい朝の匂いはどこか春に似ていた。



END


[2012/04/22]