新しい解釈の哲学本を収穫した帰り道は、アスファルトで粉々に散る水滴と人の声ではない騒がしさで満ちていた。 歩きながら本を読める天気ではない。持っていた傘が佐藤の所有物で大きかったということだけが幸い。おかげで持っていた本が濡れずにすみそうである。 視線を僅かに横に向けたのは、そこに人の気配を感じたからだった。 周りの住宅に明かりが点いて、住人はすでに避難中。特に前方から人が向かってくる様子もなかった。 それなら、これは止まっている気配だ。 『家庭の事情によりしばらく休みます』と達筆な時でかかれた紙の貼られたシャッターの前、四角い置物に抱きつく少年の姿があった。 雨よけのおかげで全身ずぶ濡れというわけではなかったが、そこから僅かに飛びだした背中の曲線部分が湿って、服の色を変えている。 ボーダー柄の襟シャツ。半ズボンから伸びた弾力のありそうな足には砂利。 「何をしてるんだ?」 見知った人間であるとわかって声をかけた。背中に落ちる粒を遮るべく傘を傾ける。 彼が伏せていた顔を上げた。振り向いた目は半分ほど寝ているようにぼんやりとしている。 「雨が」 瞼を擦りながら唇を動かしている。あくびが混じった。 案の定というべきか、置物はブラウン管テレビだった。彼はそのあだ名に相応しく、いつだって重そうなブラウン管テレビを持ち歩いている。 「降ったな」 松下が家から出た時から曇っていたが、すぐに雨が降るような様子ではなかった。 出て行こうとした背中に声をかけたのは起きて来たばかりの蛙男で、彼はご機嫌そうな表情で傘を差し出したのだ。 雨が降りますよ。 その声に蛙の鳴き声が混じっているような気がしたから、素直にそれを手に取った。 今頃、彼は鼻歌でも歌っているのではないだろうか。 「ブラウン管が濡れたら大変だと思って」 「そうだな」 ふああとあくびする口を隠そうともしない。彼の手は少しでも濡れないようにとブラウン管テレビを抱きしめたままだ。 持っていた傘の持ち手をかえ、濡れた背中を指で軽くつついた。 「なにかね?」 「傘、やるよ」 濡れて帰るのはそこまで嫌いじゃなかった。 心配はされど隣を歩く蛙男は楽しそうで、家に着いて叱る佐藤はいつだって笑みを隠せていない。 「松下くんが濡れてしまうだろう?」 口にしなければ知られることのない心のつぶやきは、当然のことながら彼は伝わることはなかった。 それなら、別の意味にしてしまえばいい。 「一緒に雨宿りに付き合ってやるって言ってるんだ。そんな体勢だと腕が痺れるぞ」 「慣れているよ」 厄介な相手だと内心で嘆息しながら、よけいなおせっかいだったなと傘を引く。 新しく落ちてきた滴が滲みて、彼の背が僅かに揺れた。 「山田」 テレビくんとあだ名のついた彼の本名を口にすれば、首だけ振り向いた彼の丸い瞳。 「おすすめのコーヒーはあるか?」 もちろん、と彼は笑った。 「そういや子どもだったんだなぁ」 湯船の淵に顎を乗せた山田は、中高年のように頭の上にタオルを乗せてつぶやいた。 「何を今更」 どっからどう見てもこの身体は子どもだ。山田だって同じのはずである。 彼の実年齢を知っているわけではないのだが、そもそも推測する材料が圧倒的に足りていなかった。くわえて、山田は自分について語らない。 時刻は夕方。彼を家に連れて行こうとしたら雨が酷くなってきたので、避難ついでに寄り道したのがこの銭湯だ。 風呂付の家が増えたせいで営業不振に陥っているのか、男湯だと言うのに客は子ども二人だけだった。 「たまに忘れてしまうのだよ」 顎を撫でられた時の猫のように目を細めて緩やかに紡がれる言葉は、どこか寝言のように響いた。 「そうか」 身体の泡を流すべく水を被る。それは渦を巻いて排水溝に吸い込まれていった。 回転して消えていくそれより綺麗なタイルがどこか勿体なく思う。 儲かっていないのなら、先に消えかけた看板やどうみてもオンボロな受付をどうにかしたらするのに回したらいいのに、と無駄な思考をしながら立ちあがった。 うとうとしているように見える山田の隣に足をつければ、爪先から伝わるやや熱い温度。外の寒さを思えば気持ちがよい。 「たまにはいいもんだね」 「入り慣れているものだと思ってたんだがな」 旅番組はだいたい温泉に行くという法則があるらしい。佐藤が羨ましげに言っていたのを思い出す。 「入れたとしても一人なのだよ」 片目だけ僅かに開け、あくび交じりに山田は口にした。 「僕の姿はテレビの向こう側にしか見えないからね」 それなら、雑踏の中に入り込んだとしても彼の姿は見えないことか。なんだか幽霊に似ているような気がした。 「気楽だろう?」 煩わしい声の数々が自らに向くことがない場所は、たまに行きたくなると言われればそうである。 「静かだからね」 ただ、と彼の唇が僅かに動く。 「本当は今みたいな静けさを求めていたのかもしれない」 動く度に波打つ水が腕に当たる感触。 天井に当たった湯気は室内を取り囲むように壁をなぞって、視界を悪くさせる。 「出るぞ」 「松下くんは早風呂なのかね?」 「放っておいたらのぼせそうな連れがいるんだ。ゆっくり浸かれやしない」 「それはすまないね」 「謝るとこじゃないだろう」 立ち上がると唐突に手を握られた。 引き上げて欲しいという合図かと思えば、山田は感触を確かめるように手を開閉して、緩やかに笑みを浮かべる。 「不思議で仕方ないのだよ」 「何がだ?」 手を戻して立ち上がる山田は笑顔を崩さず一瞥を向けただけだった。鼻歌交じりに湯船から出る。 「不思議なのは山田の方なんだがな」 その後ろを追うように出ながら言えば、僕は妖精のようなものだという答えが返って来た。 「妖精ね」 「人を惑わすのがテレビではないかね」 ガラス戸に手をかける山田の言葉に少しだけ考えた。 「誘惑する機械と言われれば、それもわかるな」 誰もが家に一台置きたがる。ボタン一つでありとあらゆる情報が映しだされて、切り替える度に新しい発見がある。 「松下くんでも誘惑されるのかい?」 「惑わされてはいるな」 ロッカーから衣服を取り出す彼の足元のテレビを見ながらつぶやいた。 気になって仕方が無くなる存在であるのは確かである。 「おいしい飲食店なら案内できるんだがね。松下くんが迷うのは夢の中だろう?」 「今、まさに迷っているんだ」 首をかしげる隣の子どもを眺めながら、松下は一度だけため息をついた。 「気にするな。ただのエゴだ」 「エゴイストじゃない人間というのも相当、珍しいものだと思うがね」 「エゴイストには見えない相手に言われてもな」 銭湯に備え付けされていた乾燥機に入れていた服は、太陽の匂いではない独特の匂いがした。 「贈り物というのは、一歩間違えれば押しつけになっても仕方がないだよ」 着替え終わった服の裾を整えながら、山田はテレビを軽く撫でた。 「自分で手に入れようと思う人間にはそうだろうな」 「だから、恵まれない子どもでなければいけない」 軽々ブラウン管を持ち上げる様は、どこか旅行者がトランクを持つような姿にも思えた。 「松下くんはそれだけじゃ満足できないのだろう?」 「そうだな」 恵まれない子どもだけではなく、全ての人間が幸せになれる王国が必要だ。 過剰も不足もなく平等なそれ。 「僕の夢が叶ったら、お前もやることが無くなるな」 ふとそんな事実に気づけば、山田が独特の笑い声を上げた。 「僕のは生きがいではないからいいのだよ」 「趣味にしてはやたらと力を入れているんじゃないか?」 「楽しいのだから没頭してしまうのだよ。チャンネルを回さず見続けるのと変わらないのさ」 「そうか」 番台で料金を払い、連れだって外に出る。 今だ、降り続く雨を二人して見上げた。もう少し待った方がいいのかもしれない。 「天気予報では晴れのはずだったんだが、彼の予報ははずれると有名だからね」 振り返った先、窓越しから見えるテレビで明日の天気について語る男性を見ながら、山田はそんなことをつぶやいた。 「今日は降り続くかもしれないってことか」 多少は濡れても傘を差して帰った方がいいのかもしれない。 「しばらく待ったら晴れると思うがね」 そうテレビについて詳しい山田が言うのなら、待ってみてもいいだろう。 「もう少しばかり、チャンネルはそのままでいたいのだよ」 後ろに見えるテレビが気になるということだろうか。 振り返ってみるがまだ、天気予報の途中なうえに山田の視線は松下に映っていた。 「いつか君が千年王国建国宣言をする時には、最前列で拝聴したいものだね」 それはまた酔狂なやつだなと思う。 「それなら、ドーナツか煎餅を用意しておかねえとな」 「楽しみにしているよ」 「その時はテレビ越しじゃなくて、僕の見える場所にしてくれよ」 画面を介してでは彼の姿が見えないというのなら。 「僕はテレビくんなのだがね」 「でも、趣味なんだろう?」 「それもそうだなぁ」 あくびしながら山田は言うと、身体を伸ばした。 仮に来てくれたとしても最前列で寝てしまいそうな相手ではあるが、それでもいいかと思える相手でもある。 「退屈はさせないように考えておくさ」 「松下くんといて退屈だとは思った事がないがね」 「明らかに眠そうな顔だぞ」 「気を許しているのだよ」 それを日常会話のように口にするのを見ていると、山田はテレビの見過ぎだと思わずにはいられない。 全く、お前は本当にテレビくんだな。 見たら立ち止まらずにはいられない。 END [2012/01/17]
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