(千年王国版)


 渡された封筒は硬質の真っ白な紙だった。
 表には無地、裏返すと光沢のある三つ葉型のシールが貼られている。
「なんだ、これは?」
 松下が顔を上げた先で、息を吐きながらネクタイを緩めていた佐藤は僅かに笑みを浮かべた。
「招待状ですよ」
 そう言いながら、松下の向かい側に座る。
 両手にふぅと息を吹きかけながら、寒くなりましたねと当たり前のことを口にした。
「誰からだ?」
 松下が想像するに何かに招待してくれる相手には、心当りが全くない。いや、こういうことをしそうな人間なら、今、まさに目の前でこたつの上に顎をついていた。
「私ではありませんよ」
 珍しく先手をうってきた佐藤は、小さくあくびを漏らす。
 時計は既に深夜を回っている。何をやっているのかは、把握していないが最近の彼の帰りはやたらと遅かった。

 まあ、危なければ蛙男が止めるだろうしな。

 そういう意味で、とくに問い詰めることもなく放置していたのだが、それも関係しているのだろうかと頭をよぎらせる。
 その蛙男は少し早目に就寝したというか、松下がそうさせた。佐藤がいない分、今日は家事関係を頑張っていたようだから、寒さも含めてきついだろうと思ったのである。
『メシアより先に寝るわけにはっ!』
 と、最後まで抵抗していたのだが、松下が頼むとあっさり折れてくれた。

 改めて、封筒を眺める。表紙の文字は無く誰が書いたかどうか判断しようがなかった。
 重さは軽い。光で透かせるほど薄くはないだろう。
 佐藤が直接持ってきたようだから、危険ではないと思いたいのだが、彼は騙されやすいので気をつけた方がいい。
 耳をあてて、動かすがカサカサと紙の触れる音がするだけだった。
 少し眠たげな佐藤の視線を受けながら、松下は顔をしかめた。

「なんなんだ、本当に」

 困ると思ったのは、佐藤がやたらと穏やかすぎる表情のせいである。
 今まで見た事がないくらいに疲れているのはわかっているのに、それでも苛々やもどかしそうな空気が一切なかった。昨日は少し荒れているように見えたから、心配して待っていたのだが、杞憂に終わったのには安心している。
 しかし、これはこれで不気味だった。

「開けてみてのお楽しみです」

「……部屋に戻って開ける」
「この場で開けるというのは無理ですか?」
「なんでだ?」
「あっ、いえ、別にいいんですけど……いいんですけど」
 はあと重いため息を佐藤が漏らす。
「疲れてるんじゃないのか?」
 素早く佐藤が顔を上げた。
「心配してくれるんですか!」
「早く寝ればいいのにと思っただけだ」
 本音と建前の半々で口にする。
 手元のものを開けるのは、何となく怖いと思ってしまった。
 封筒を近づけた時に僅かに嗅ぎ取った匂いの正体を思い出してしまったのだ。

 あれは、オヤジの葉巻の匂いだ。

 社長の地位についてからやたらと吸うようになったそれはスーツに染みついていて、松下としてはあまり好きなものではなかった。
 そういえば、佐藤も最初は煙草の匂いがしていたが、松下と再会してからというもの一度も吸っていないようである。
「メシヤがそれを見た後に寝ようと思っていまして」
「内容を知っているなら、僕の反応ぐらい想像つくだろう」
 佐藤が本当に知っているかどうかはわからないが、そう口にすれば反応でわかるだろうとわざとかまをかけた。

「もちろんと言いたいのは山々なんですが、少し自信がないのも本音ではあります」

 佐藤が浮かべるは苦笑。
 ということは、ろくな内容ではないだろうなと松下は息を漏らした。
 内容がどうであれ、これを思いついたのは佐藤で、太平は巻き込まれただけだろう。
 それには同情してやりたいものではあるが、たまに仕事の手伝いに佐藤を呼ぶところを見るに、彼は優秀らしいのだからギブアンドテイクなのかもしれない。
「わかった。開けてやるよ」
 裏側に貼られていたシールは、軽くしかついてないようだったので指でも大丈夫だろう。
 強くついているようだったら、カッターでも使うところだったので助かった。

 中から出てきたのは、シンプルな白い封筒。
 書かれている文章は少ない。けれども。
「……あ、」

 オヤジの字だ。

 知っているホテルの名前と時間、それと一緒にディナーはどうかとだけ。
 滲み方から見るに万年筆だろう。僅かにぶれて見えるのは、緊張していたのかもしれない。
 久々に見るそれはいつ以来だろう。いや、そんな過去のことはいい。
 目の前にあるのは、明らかに現在のものだ。新品の紙。光に透かすと所々にペンの跡が残っていた。

 何度も文章を書いては捨てて、書いては捨てを繰り返したのだろう。
 跡になった文字は潰れていて、読み取ることはできなかった。
 何度、文字を重ねたのか、いくつ言葉を選んだのか。
 残されたのは簡潔な文章でしかない。

「よわっちゃうなぁ」

 ようやく出てきた言葉はそんなもので、本心に似ているが的確なものではなかった。
 ただ、これで佐藤を責めることができなくなった。
 よけいなことしやがってともオヤジがこんなことするわけないだろとも、言えなくなった。
 無理矢理に書かされて、ここまでするわけがないのだ。
 太平はワーカーホリックだ。いや、それが松下を避けるためだとしても仕事のことしか考えていないような男である。
 そんな男が、たったこれだけの文章ためにかけた時間を嘘にはできない。

 嘘にはしたくない。

「外は寒いですからね。社長直々に運転を頼まれておりますので、送迎については心配しないでください」
「僕は行くとは言ってないぞ」
 手紙を畳んで封筒に戻す。
 正面を見れば、佐藤が緩やかに笑みを浮かべた。
「行かないとは言わないでしょう」 ふいと顔を背けて、鼻を鳴らした。
「今日も寒いな」
「出掛ける頃には暖かくなると思いますよ」
「根拠は?」
「なんとなくです」
 鼻がやたらとむず痒い。
 全く、どうして、こんなにも。

「今日は本当に冷えますね」

 そう言った佐藤がティッシュ箱を差し出す。
 大人しくそれから一枚取った。
「とっとと寝て来い。家ダニめ」
「そうします」
 立ち上がった佐藤が出て行くのを視線だけで追う。
 ちゃんと扉が閉まったのを確認してから、松下は大きく息を吸った。ゆっくりと吐き出す。
 何を話せばいいのだろう。
 そんな疑問をよぎらせながら、顔を突っ伏せた。
 思い出す過去の情景を瞼の裏で辿って、もう一呼吸。
 立ち上がって目尻を拭う。濡れてなんていなかったけれどもやたら熱かった。
「こまったなぁ」
 本当はちっとも寒くないのが一番困ったものである。


 約束の日。太平との食事を終えて駐車場に戻って来ると、案の定と言うべきか想像通りと言うべきか、ハンドルに頭を乗せて佐藤が寝息を立てていたものだから、思わず肩を竦めた。
 どうやら鍵はかかってないようだったので、そのまま乗り込む。
「無防備なやつめ」
 万が一、車を盗もうとした不届きな輩に乗りこまれたらどうするのだと思いながら、全部のドアの鍵を閉めた。
「……メシヤ?」
 背中を乗り越えて、運転席に鍵をかけたところで佐藤が僅かに身じろぎする。

「眠いならもう少し寝てろ。事故になるのはごめんだ」

 助手席に戻りながらそんな風に言って、朝に蛙男から聞いた話を思い出す。
 彼いわく、今日のこの時間に太平が来られるように暗躍したのは、佐藤だったらしい。
 佐藤にできることなんて限られている。彼は優秀ではあっても天才ではない。
 いつからこの計画がなされていたのか知らないが、佐藤がそのために時間を割いたことだけは事実だった。

「話はできましたか?」

 寝起きの掠れた声で佐藤が問う。
「ああ。昔の話を少し、な」
 生まれた時のこと、母が死ぬまでのこと、今に至るまでのいくつか。
 断片的で、脈絡もなく、ただ一言ずつ返していくようなもので、会話と言っていいのかもわからなかった。
 途中から太平は声を上げなかったものの涙を流したものだから、あれには本当に参った。

「僕は母には似なくてよかったらしい」

 祖父母は母の妊娠を知った時、それが本当に自分たちの孫であるかどうかを疑ってかかったらしい。
 それでも生まれた子どもが明らかに太平の容姿を受け継いでいたのを知るなり、安心して文句も言わなくなったそうだ。それまでは、跡継ぎがどうだとか騒いで母は苦労したらしい。
「似ていた方がよかったのですか?」
「いいや。今でいい」
 似ていたら、またあのオヤジは思い出して泣くのだろう。
 ひんやりとした駐車場と違って、車内は少しだけ暖かい気がした。
 吐き出された息はとても小さなものだったから、窓を曇らせることもなかった。

「……愛されていないと思った事なんて、一度もなかったんだがな」

 佐藤から視線を逸らして、つぶやきが漏れた。
 泣きながら謝られるとは、本当に全く予測なんてできなかった。
 別の階で降りる予定だった太平と同じエレベーターに乗って、二人だけで居たからなのか、急に抱きしめられたのである。
「元々、深く考えたことのない話だ」
 耳元で響く声。やたら懐かしい状況だと頭の片隅で思っていたら、母の葬式でも抱きしめられたことがあったと思い出した。
 あの日はただ母に対しての愁いだけの涙だったように思う。
 今回は明らかに自分のためのものだとわかった。

「帰りますか?」
「そうだな。その前に少しじっとしてろ」
「えっ?」
 首を傾げる佐藤に向かって身を乗り出し、ギアにかかった手に触れた。
「どうしたんですか?」
「いや。もういいぞ」
 驚いた様子の佐藤を横目に、重ねた手を離す。
 気になる様子ではあったが、彼は大人しく車を出した。

「佐藤」
「なんでしょう?」
 前だけを見つめる横顔を眺めながら、松下は口にしようとした質問を飲み込む。
「オヤジがお前に感謝してたぞ」
「そうなんですか? 感謝したいのはこちらの方なんですけどね」
 困ったように言いながらも佐藤は嬉しそうだった。
 嘘ではない。
 あの太平が彼はよくやってくれていると言ったし、松下の話を教えてくれるのだと言ったのだ。今回の話も元は太平が持ちかけて、動いたのが佐藤だったらしいのだから驚いた。
 ずっと、ちゃんと話がしたいと思っていたらしい。
 過程はどうあれ、結果的に佐藤を家庭教師に選んでよかったと言われた。

 僕はその逆だ。

 口に出すことはしなかったけれども本当にそう思う。
 おかげで、わからないことばかりが増えていく。
 触れた佐藤の手の甲は冷え切っていた。
 来てからずっと、彼がこの駐車場で待っていた理由が、松下には理解できない。
 聞こうとも思ったが、なぜだか口に出すのは躊躇われた。
 その意味すら僕にはわからない。
 けれども一人でこの駐車場で待つよりは、よかったのだろうと思った。
「たまには、親子水入らずというのも悪くないと思いますよ」
「そうだな」

 それなら、今度はお前と蛙男で来よう。

 半分以上、料理の味なんて覚えていないけれども、最後のデザートの甘さと珈琲の美味さだけは覚えている。

 あれをお前たちには味わってほしいと思ったんだ。

 どれも言葉にせずに、伝えないでおいた。
 贅沢な話だなと自嘲しながら、いつかそうすることができればいいと夢見るぐらいは許されるだろうかと目を閉じた。

END

[2011/01/06]